シザーハンズ
エドワードと木村花さんは集団ヒステリーの犠牲者だ
シザーハンズ(1990年 ティム・バートン監督)
女子プロレスラー木村花さんの死が社会問題になっている。SNSの誹謗中傷に傷ついて死亡したとされ、政界ではネットの表現を規制する動きも出てきた。木村さんの悲劇から思い出したのがこの「シザーハンズ」だ。集団ヒステリーの構図が似ている。
化粧品セールスレディのペグ(ダイアン・ウィースト)は丘の上にそびえる古い屋敷を訪ね、エドワード(ジョニー・デップ)という青年と出会う。彼は両手がハサミでできており、自分を「未完成」と言う。両手が完成する前に生みの親の博士が死亡したためこの姿なのだ。
同情したペグは彼を家に連れて帰り、家族と同居させる。ペグにはキム(ウィノナ・ライダー)という美しい娘がいて、彼女は恋人のジムと進行中だ。暇を持て余した主婦たちはエドワードに興味津々で、ペグの家に様子を見に来る。
そうした中、エドワードはハサミで家の植木を恐竜型に刈り込んで人々を感嘆させ、芸術的センスで主婦たちの髪をカットして人気者に。テレビにも出演する。だが、ジムはエドワードを利用して窮地に追い詰め、町の人々もエドワードに狭量な偏見を抱き始めるのだった……。
エドワードは幼いころ周囲と人間関係を築けなかったティム・バートン監督の自己投影とされる。憂いの表情のエドワードが人々になじんで微笑むさまは一種の青春映画。キムの恋心を絡めているため“ファンタジック・ラブロマンス・コメディー”などと評されるが、人間の集団心理も見どころだ。
この純真無垢な青年に肉食系の人妻は性を求めて迫り、ジムはキムの気持ちを奪われたため彼を陥れようとする。パステルカラーの美しい町は一皮むけばエゴの巣窟。だから奇異な姿のよそ者が自分たちの意のままにならないと知るや、一転して彼をモンスターのように恐れ、憎む。そのあげくエドワードが逃げ帰った古城に徒党を組んで押しかける。友好の念が敵意に大転換。そのヒステリックな姿はこれまで米国映画が描いてきた集団リンチそのものだ。
木村花さんの件も同じだろう。視聴者は彼女が出たテレビ番組を面白いと感じてチャンネルを合わせたが、些細なことで批判が起き、これが大衆に拡散してヘイトの色を帯び、憎しみに増幅された。劇中の女たちが日々の暮らしに退屈しているように、日本人は巣ごもり生活で刺激を求めていた。コロナへの不安と恐怖もあっただろう。そんなとき人は集団で誰かに刃を向けたくなる。関東大震災で異国人に竹槍を突き立てたのと同じ精神構造かもしれない。
テレビで解説していたが、ネット上で誰かを攻撃して炎上させる人の割合は0・5%だという。彼らは収入に恵まれ、普段は理性的に振る舞う。いい人を演じるストレスから名前のない群衆になるそうだ。
わずか0・5%がネットの世界で竹槍を振り回し、犠牲者を生み出している。劇中の町も現実の日本も閉鎖的な村社会だ。呆れるほど同調圧力が強い。このところネットの誹謗中傷も自粛警察も鎮静化した感があるが、一時的に身を隠したにすぎない。いまは地下に潜り、包丁を研ぎながら次の生贄を物色しているのだろう。彼らが身近な場所に潜んでいることを、我々は認識しておくべきだ。