ディア・ドクター

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本物になれなかった男の悲哀 ラストシーンで笑いながら涙が…

ディア・ドクター(2009年 西川美和監督)

何度見返しても面白い作品だ。
舞台は人口1000人余りの山間部の村。ここに村営診療所に勤め、村人全員から慕われる医師が働ている。笑福亭鶴瓶が演じる伊野治という男で、村長の誘いを受け、長らく医者がいなかったこの村に赴任してきた。
映画はこの伊野が失踪した場面から始まる。心配した村人が夜の診療所に集まり、刑事の波多野(松重豊)と国安(岩松了)が村民から猪野の人となりを事情聴取するが、不思議なことに彼らは猪野の素性を知らない。言っていることがバラバラなのだ。捜査を続けるうちに2人の刑事は猪野がニセ医者であることに気づき、あらためて医療関係者らから話を聞き始める。
ここで話が一転。猪野が失踪する2カ月前に相馬(瑛太)という若き研修医が赴任してくるシーンに移る。インターンを終えたばかりの相馬は猪野の往診のサポートを務め、伊野に尊敬の念を抱く。だが実は伊野は自分がニセ医者だという罪悪感と戦っている。
一方、看護師の大竹(余貴美子)は伊野の正体に薄々気づいている。だが、そのことを暴露するつもりはない。むしろ医学知識の乏しいニセ医者をフォローして「立派な先生」に仕立て上げている。そうした日々の中、伊野は胃痛に悩む和子(八千草薫)の要望に応じ、彼女の娘で医師のりつ子(井川遥)に病状を悟られないよう協力する。だが、そのことが伊野を追い詰めるのだった……。
死んだと思われた老人を衆人環視のもとで抱きかかえたところ、喉に詰まった赤貝が偶然取れて蘇生したり、大竹の指導を受けて肺気胸の患者の胸に針を打って命を救うなど、伊野の活躍には笑える場面が少なくない。そうした笑いを経て、いつしか観客は人間の「心の闇」に触れているという仕掛けだ。
一人暮らしの和子を往診するシーンは圧巻だ。夜の暗さとニセ者の後ろめたさが混然一体となって、観客の胸に薄墨のような緊張感をもたらす。物語が虚と実の間を行き来しつつ、観客を物語に引きずり込むのだ。過去と現在が巧みに交差する編集もミステリアスでお見事。この変則的な場面チェンジのおかげで最後まで退屈せずに見ることができる。
猪野はもともと医療関係の会社で営業を務めるサラリーマンだった。その男がなぜニセ医者になったのかは語られない。彼の正体に気づき、弱みを握って薬品を売りさばこうとする斎門(香川照之)との会話の片りんに見え隠れするだけだ。猪野は有名大学に勤めていた医師の息子だ。子供のころから父の背中に憧れを抱き、医師という職業に就きたいと考えていた。だが夢がかなわずサラリーマンとなった。それでも医師への夢を断ちがたくニセ医者に転じた。おそらくそんなところだろう。
野球選手やパイロット、そして富豪のビル・ゲイツなど、人は憧れの職に就きたいと願うものだ。そのために正体を偽った事例はいくつもある。少し前までは獣医が開業医にバケて人間を診察していたことが発覚して逮捕されたというニュースがよく流れていた。あのショーン・マクアードル川上(ショーンK、本名・川上伸一郎)などは米国系のコンサルタントになりたい一心から同級生もあきれるほど顔の造作を変えて報道番組などに出演。日本人をだました。今年の1月に日本公開されたポーランド映画「聖なる犯罪者」(2019年、ヤン・コマサ監督)は少年院を出た信心深い青年が田舎町に辿り着いて司祭の代理を務める。事実をもとにしたストーリーである。
「ディア・ドクター」「聖なる犯罪者」に共通するのはニセモノのほうが本物よりずっと理想的な人物ということだ。彼らは村の人々に信頼され、賞賛される。本作の相馬医師などは猪野の働きぶりに感銘して、このまま村に留まりたいと希望。開業医である自分の父親を引き合いに出し、「僕の親父なんか、経営のことしか頭にないんですよ」とまで言う。
だがそうした中、猪野は自分の罪悪感と戦っている。コミカルな場面の中でふと猪野が見せるニセモノの後ろめたさが本作の見どころだ。その演技は怖いほどだ。ニセモノゆえの哀切と無垢な村人たちの歓喜の拍手が大きな対比となって観客の胸に響いてくる。たしかに猪野はニセ医者だ。だが、こんな医師がいてもいいじゃないかという気持ちさえ抱くのだ。その結果、波多野刑事の猪野に対する冷徹な追及が理不尽な攻撃に思えてくる。

ネタバレ注意

一人暮らしの老女・和子の娘で医師のりつ子が次に帰郷するのは1年後であると聞かされたとき、猪野は診療所を飛び出してバイクで走り去る。和子の要望でりつ子に本当の病状を隠していたが、彼女が親の死に目に会えないかもしれないと悟ったとき、猪野の中に潜んでいた罪悪感が頂点に達し、あふれ出たのだろう。フェイクはどんなに頑張ってもフェイクにすぎないという悲しい現実がここにある。
だが猪野は警察の手配を感じながらも和子のことが気になる。だからラストで彼女が入院している東京の大学病院に配膳係の変装で会いに行く。大きなマスクをかけた男を猪野だと気づく和子。マスクの奥でクスッと笑う伊野。和子の気持ちは「あら、会いに来たのね」だろうか。猪野のクスッは「だましてゴメン」というような照れ笑いに聞こえる。筆者は互いを見つめ合う2人の姿を見てエンドロールの曲を聴きながら、無性に笑えてきた。笑いながら、なぜか涙がこぼれたのだ。

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