市民虐殺を強いられる「通勤型戦闘員」の苦悩
ドローン・オブ・ウォー(2014年 アンドリュー・ニコル監督)
原題は「Good Kill」で、劇中では「一掃した」の意味。無人攻撃機を描いているため、この邦題にしたのだろう。米国にいながらアフガニスタンの上空を飛ぶ攻撃機を操縦する将校の物語。事実を基している。ハリウッドが中東を舞台に製作した戦争映画は米国を正義派に見立てた作品が多いが、本作はがらりと趣が異なる。
米国空軍の少佐トミー・イーガン(イーサン・ホーク)はラスベガスにある基地のコンテナが職場。アフガンの無人攻撃機を操縦し、タリバンの幹部らをアジトごとミサイルで瞬殺するのが任務だ。自宅からクルマで通勤している。トミーはもとはジェット戦闘機のパイロットで、実機の任務に戻りたがっているが要望をかなえてもらえない。
そんな中、CIAによるアルカイダ攻撃の極秘任務を命じられる。CIAはろくに確認もせず、怪しいと思える施設を次々と攻撃するよう指示。救出のために集まった民間人に第2攻撃を加え、山小屋を農夫ごと吹っ飛ばす。まるで虐殺だ。トミーは妻モリー(ジャニュアリー・ジョーンズ)に任務の内容を打ち明けることができずに悩み、精神的に追い詰められるのだった……。
敵と味方が戦う戦争映画ではない。テーマは遠距離攻撃に従事する軍人の苦悩だ。ミサイル攻撃の場面に爆発音はなく、きわめて静かに爆殺が進行していく。
トミーのような職業は「通勤型戦闘員」と呼ばれている。彼は毎日、ラスベガスの色鮮やかなネオンの中を通勤。アフガンの砂漠との対比はまるで天国と地獄だ。
トミーはCIAの高圧的な命令で市民や子供を殺害。上官は職務として割り切れと言い、若手は鼻歌まじりでミサイルを放つ。モリーは米国人の妻らしく自己主張し、夫の残業で自分の予定が狂ったことをなじる。悩めるトミーは意識が茫然。騎乗位の妻に応じず、虚空を見上げるのだ。
なぜこうなるのか。
特殊な任務環境が原因だ。「最強!世界の未来兵器」(Gakken)という本を読んでいたら、無人攻撃についてこんな一文があった。
「無人機コントローラー(操縦者)は、基地内のオペレーション・ルームに入ると即目的地(戦場)であり、生々しい監視任務や攻撃任務の後に(次の担当者に引き継いで)オペレーション・ルームを出た瞬間に、“穏やかな”基地のオフィスに引き戻される。これを繰り返すうちに心理的不安定感を訴えるコントローラーが頻出したのだ」
なるほど。本作の本質はここにある。おそらくこういうことだろう。
かつて米国の男たちはノルマンディーや朝鮮半島、ベトナムなどの激戦地に派遣された。平穏な暮らしから隔離され、戦闘の中に投げ込まれることで頭を切り替えて殺し合いに徹する。それが戦争だ。
だが通勤型戦闘員は違う。彼らは妻や子供にキスをして出勤、基地で人を殺して帰宅し家族団らんを味わう。そして翌日また戦争に出かけていく。人殺しの中に家庭があるのか、家庭の中に人殺しがあるのか分からない。だからトミーはミサイルの照準を絞りながら妻が浮気をする妄想にかられてしまう。かくして理性的な者ほど懊悩し、自分の正義を求めてもがくことに。トミーの場合はCIAの非情な指令がその引き金となった。
ただ、見終わったときにひとつ疑問が残る。トミーは実機に乗ることが真のパイロットだと考えている。だが彼が過去に空を飛びながら遂行した爆撃任務に、子供や民間人を巻き添えにする違法行為がなかったという保証はない。罪なき者を殺したかもしれないのだ。無人攻撃も有人攻撃も米国のための殺戮。どちらが正しいという答えはない。
正義とは何か――。本作はこの重いテーマを突きつけているように思えるのだ。