夜の素顔

成り上がり女の知られたくない「過去」

夜の素顔(1958年 吉村公三郎監督)

脚本は新藤兼人。ドロドロした女の野望と計略を描いた傑作だ。
1948年、戦争の痕跡が残る東京で、踊り子の朱実(京マチ子)は日舞の家元・小村志乃(細川ちか子)に直談判して弟子入りを許される。数年後、朱実の働きで志乃の流派は家勢を拡大していた。その志乃に朱実は歌舞伎役者の中村と踊るべきだと提案。中村に自らの肉体を与えて志乃とのコラボを承諾させる。

ところが、この公演で志乃は「老醜」とさんざんな悪評を浴び、反対に朱実は称賛される。勢いづいた朱実は志乃のパトロンの猪倉を寝取って志乃と決裂。猪倉に屋敷を建ててもらい、独立する。

そんな折、朱実は戦時中、南方の兵士を舞踊ショーで慰問した際に肉体を交えた若林(根上淳)と再会して純愛を蘇らせる。朱実はもらう物はもらったとばかりに猪倉と別れ、今度は若林を経営幹部にして全国巡業を展開。その結果、借金が増え、そればかりか若林を弟子の比佐子(若尾文子)に横取りされるのだった……。
女狐が体を使ってワナを仕掛ける成り上がり物語。朱実が歌舞伎役者とのコラボの企画を進めたのは師匠の志乃を蹴落とすためだった。朱実は富と名声のためなら、誰にでもセックスさせる女なのだ。
なぜなのか?

ポイントは絹江(浪花千栄子)の存在だ。リッチになった朱実を訪ね、カネの無心をする絹江は血縁のない母。朱実は12歳のときアル中の父によって絹江に売られ、数えきれないほど客を取らされた。だから体を武器に戦えるのだ。
一般社会にもこうした女が存在する。バツイチ女性が生活のために就職し、好きでもない経営者の愛人となって社内政治を牛耳るなんてのはざらにある話だ。筆者は20代のころ、勤務先の編集プロダクションでこうした実態を目の当たりにしていた。その会社の社長は妻帯者であるにもかかわらず、柴子という離婚歴のある事務員を採用するや彼女にぞっこんに惚れ込んだ。柴子は社長のご威光をバックにあっという間に権勢を増して古参の社員を顎で使うようになった。社長と彼女は武道館を一望できる深夜の社長室で互いの肉体を打ち付けていたらしい。柴子は生きるために惜しげもなく快楽を与えたわけだ。

この種の女性には朱実のような風俗経験者もいる。男に抱かれることに抵抗感がないのだから、純情なOLは太刀打ちできない。それでも朱実のように惚れた男に尽くしたいという純な心根は残っている。女の二面性は不思議だ。というより、偽りの密か事で汚れた心と体を純愛によって浄化しているのだろう。
面白いのは若尾文子演じる比佐子も同じ境遇にあること。日舞という伝統芸能の世界で、スネに傷を持つ2人の女がエロスの肉弾戦で相手の寝首をかき、ウソ泣きで忠誠を尽くす。おそらく朱実も比佐子も自分を虐げた世の中を恨んでいる。だから恨みを晴らし、不幸のコンプレックスを払拭するためには手段を選ばない。古い様式を破壊しようとする姿は幸福な社会への復讐のようだ。

ラストは成り上がり女の生臭い本性でシニカルに締めくくっている。浪花千栄子の鬼畜のような演技を含めて、やはり女は恐ろしい。

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