「Shall we Dance?」 日本版と違うスッキリ感動の夫婦愛に脱帽

Shall We Dance?(2004年 ピーター・チェルソム監督)

日本でヒットした周防正行監督の「Shall we ダンス?」(1996年)を米国ハリウッドがリメイクした作品。筆者は周防版の結末に違和感を覚えたが、この米国版を見終えて胸がすっきりした。

日本版のエッセンスをなぞっているので、ストーリーは詳しく説明する必要もないだろう。シカゴで遺産相続を専門とする弁護士のジョン・クラーク(リチャード・ギア)は優しい妻バリー(スーザン・サランドン)と素直な息子、娘の4人家族で幸せな暮らしを送っている。だが彼は何か物足りないものを感じていた。

そんな日々の中、帰宅の電車から見える社交ダンス教室の窓にたたずむ女性に心を引かれる。そこで意を決して家族に内緒でダンス教室に通い始めるのだ。

教えてくれるのは電車から見た美女のポリーナ(ジェニファー・ロペス)ではなく、おばちゃん先生だが、白人のチック、黒人青年のヴァーンらとともに初心者コースの講習が始まる。

一方、バリーは帰宅が遅くなった夫の浮気を疑い、探偵に調査を依頼する。夫はダンスにご執心となり、妻は夫を疑って内心穏やかでないというすれ違い生活だ。

やがてジョンは派手で自己主張の強い女性ボビー(リサ・アン・ウォルター)とのペアでダンス大会に出場するのだった。

米国版の「プロジェクトX」

何の不足もない満ち足りた生活。家族も愛情に満ちている。そんな人生を歩みながら、ジョンはいつしか心の中にすき間が生じている。人の死と連動する遺産相続の業務に携わるうちに、中年の彼は残りの人生を意識したのかもしれない。空虚な日々に刺激を求めていた。

そんな折にポリーナを見かける。彼女の寂しげな眼差しの中に自分に似た陰りを見出したのかしれない。ポリーナの孤独感の実像を知りたいという気持ちが芽生え、同時に高校のプロム以来遠ざかっていたダンスへの情熱をかき立てられたのだろう。

やり始めたら、明日はもっと上手になってみせると向上心を抱くのが習い事の世界。ジョンも仕事中に足がタップを踏むようになり、トイレでも体が踊ってしまう。西洋人もわれら日本人もサラリーマンは明日への活力を求めているわけだ。どちらかというとクールな気質の米国人があえて本作をリメイクしたいと申し出たのは、洋の東西を問わない普遍性があるからだろう。

レッスンのひとつの区切りとしてダンス大会がある。彼らはその目標に向かって突き進む。かつて日本ではNHK「プロジェクトX」という番組がヒットしたが、本作にも同番組に共通する目標達成の醍醐味がある。

この醍醐味に重苦しい過去に囚われたポリーナの心の開放や探偵の右往左往などが加わり、重箱弁当のように豊富な内容が積みあがった。だから飽きることなく見終えることができる。周防監督のオリジナルが優れているからだろう。

ネタバレ注意 なぜ、ハリウッド版を推すのか?

上記の本文でオリジナルが優れていると書いたが、実は筆者は日本版よりもこのハリウッド版のほうが上質な映画に仕上がっていると思う。それには理由がある。ラストの処理が簡潔なため、見ていて納得がいくからだ。

はっきり言って日本版は冗長な結末だった。主人公の杉山(役所広司)はほったらかしにされたことに不満を抱いてた妻・昌子(原日出子)と家の庭に下りてダンスを教える。
「寂しい思いをさせて悪かった」
と声をかけ、妻は赦しで応える。高校生の娘は両親を見つめている。気持ちがほっこりする風景だ。

本来はここで終わればよかった。ところが終わらなかった。

杉山はヒロインの舞(草刈民代)が米国に留学するので送別会に参加するよう誘われながら、当日はパチンコ店に立ち寄り、立ち食いソバ屋に入ったりして、行きたい気持ちを抑えようとする。観客はやきもきする。そのやきもきは「妻との関係が修復し、さらに強まったのだから、それでいいじゃないの? 気持ちを切り替えて送別会に参加しなさいよ」というものだ。

だが杉山は観客を焦らす。この部分の焦らしはどこかイジイジしている。

そのあげく送別会に滑り込みで参加し「シャル・ウィ・ダンス?」と言って、舞と最後のダンスを披露する。
これでは妻の昌子を大切にしているのか、それとも舞に未練たらたらなのか、あるいはそのどちらの心理も併せ持っているのか、杉山の気持ちが理解できない。たしかに人間の気持ちは複雑だが、こうしたコメディ映画はすっきり終わったほうがいい。

その点、ハリウッド版は秀逸だ。ジョンは一輪のバラを持ってバリーが飾り付けをしている売り場に現れ、彼女にダンスを教える。キザな風景だが、それも米国流なのだろう。というより、キザだから泣けてくる。夫妻を見守る同僚女性2人の演技もいい。

次の展開が重要だ。ジョンは、
「パーティーにはパートナーがいる。僕のパートナーはキミだ」
と言ってバリーとともにポリーナの送別会に参加する。バリーをポリーナや教室の仲間たちに紹介。最後のダンスは妻が見ている前で披露する。さらにポリーナが留学先の英国で新たなパートナーを得て踊る場面も差し込まれる。

つまりジョンはポリーナに女性の魅力を感じてはいるが、あくまでも先生としてリスペクトしつつ彼女の傷心を心配するという友情関係の色合いが強い。妻バリーとは愛情関係に徹する。住みわけができているため、結末の座りが良いのだ。

一方、日本版の杉山は妻の昌子も好きで、舞も好き。そのあげくイジイジと送別会を避けようとする。つまり2人の女性に対して精神的な二股をかけ、結果的に単身でパーティーに飛び込む。だから筆者は釈然としなかった。劇場を去るとき、割り切れなさが残ったものだ。

こうしたことから日本版を冗長に感じた。これでは送別会のくだりはないほうがよかったとさえ思ったほどだ。実際、ハリウッド版の106分に対して日本版は136分と30分も長い。

なぜこうなったのか。日本版に関わったX君に聞いたら、こう説明された。
「あの映画では製作中に関係者から、焦点が絞られていないという疑問の声が上がっていた。妻を愛するのか、それとも舞を愛するのか、気持ちがブレているからです」

そこには周防監督のある事情があったという。
「スタッフなど関係者のお見立ては、撮影時に周防監督が草刈民代にベタ惚れしたたため、自分の分身として杉山に愛情表現をさせたのだろうというのです。つまり杉山は監督自身ということ。周防監督の草刈への執着心がしつこい結末を生んだとみられています」

なるほどなぁと思った。製作現場の総指揮官の恋慕の情によって、杉山は昌子と舞を相手に“二正面作戦”を演じたわけだ。映画を使った「愛の告白」と言えるだろうか。

筆者はX君の説明を聞いて胸のモヤモヤを晴らすことができたのだった。

蛇足ながら

本作の見どころはダンス大会やラストのパーティーだが、夜の教室でジョンとポリーナが踊るシーンも見逃せない。照明を落としたアンバー色の室内で、2人が体をタップを踏み、入れ替えて舞踏に興じる姿は一種の格闘だ。なんともカッコいいい。それとジェニファー・ロペスのヒップラインがまぶしい。

男と女は何度も唇を近づけるが、接吻はしない。終了後、顔を見合わせて微笑む。教室を出たジョンは駅のホームでなにやら考え事をしている。

ピーター・チェルソム監督はこの場面の描写によって、観客が心に潜ませているジョンとポリーナの愛情関係を演出した。ただし、それはあくまでも匂わせるだけ。ラブロマンスの要素を漂わせる程度にとどめた。これでいいのだ。

休日に本作と日本版を見比べて結末の違いを鑑賞し、どちらが気に入るかを自分に問うてみてはいかがだろうか。

おすすめの記事