「教祖誕生」 統一教会を彷彿とさせる「銭ゲバ」新興宗教の胡散臭さ

統一教会を彷彿とさせる「銭ゲバ」新興宗教の胡散臭さ

教祖誕生(1993年 天間敏宏監督)

統一教会問題で世間が騒がしい。自民党を中心とした保守政治家たちが教団に取り込まれ、同じ政治思想で動いていたというのがこの問題の特質だ。教団は政治家を抱き込むために選挙のときなどに必死の協力をしたという。カルト宗教のしたたかさを思い知った読者も少なくないだろう。
この「教祖誕生」はビートたけしの原作小説を映画化した。新興宗教でうごめく人々を狡猾かつ暴力的に描いたコメディ作品だ。
故郷に帰る途中の青年・高山和夫(萩原聖人)は船の上で新興宗教団体「真羅崇神朱雀教」の教祖(下條正巳)とその一行を目撃する。和夫はこの種の団体を疑っているのだが、彼らが田舎町の路上で布教活動をする光景に興味を抱いた。車いすの老女を連れた若い女性が「お婆ちゃんの足を治して」と依頼。教祖が手かざしすると、あら不思議、老女はしっかり立ち上がったのだ。
これを見た和夫は教団幹部の司馬(ビートたけし)に、彼らの布教活動に同行させて欲しいと頼み、許される。実は例の老女は彼らの仲間で、足腰はピンピンしている。つまりはサクラなのだ。また、老いた教祖はもともとはアル中のホームレスで、司馬に拾われて演技をすることとなった。何から何まで怪しいのだ。
司馬の下に呉(岸部一徳)という幹部がいて、2人はどうやってカネを稼ぐかしか頭にない。布教や手かざしで稼いだカネでこっそり贅沢な食事をしている。一方、信者の駒村(玉置浩二)は司馬の宗教団体にあるまじき行為に疑問を持ち、たびたび衝突する。
そんな中、教祖が自分の意思で行動するようになり、これを危険視した司馬は「出て行け」と命じてお払い箱にする。代わりに和夫を若き教祖に仕立て上げ、勢力の伸長を画策するのだった……。
上演時間95分。暴力的な場面を差しはさみつつ、最初から最後まで淡々と話が進み、実に面白い。退屈する場面がないのだ。それは一見、神を崇敬して一般信者を導く幹部たちの正体をひたすら金集めを目論む銭ゲバとして描いているからだろう。
人前では老人教祖を「教祖様」と呼び、「教祖様は積年の修業によって、水の上を歩ける。水中に10分間潜れるのです」と言って崇拝の姿勢を見せるが、宿に戻れば、酒びたりの教祖を「誰のおかげでこんな御馳走を食べられると思ってんだ」と恫喝し殴る蹴るを加える。そのギャップの面白さだ。
つまり本来は清廉であるべき団体が表と裏の顔を持ち、その落差が大きいところに笑いの要素がある。観客は「やっぱりそうか」と自分が賢くなった気分に浸れるのだろう。
ビートたけし演じる司馬は、教祖などは誰でもいいと考えている。突き詰めていえば、自分たちが信じる神様ですら何でもいい。鰯の頭もなんとやら。難しいことを考えるひまがあったら信者を増やしてカネを巻き上げろというわけだ。人間は弱いがゆえに神様を求める。教祖の姿に生きている神を見出す人こそがカモネギだ。安倍晋三を射殺した山上徹也の母親などはその典型なのだろう。
しかも司馬は教団の女性とその娘にも手を出している。親子どんぶりだ。この司馬のキャラが本作の一番の見どころ。金銭欲、性欲、食欲にまみれたエゴイストの実像をうまく描いている。そういえば、今から30年前、大手宗教団体の教祖が人妻の信者を愛人にしているなどと週刊誌に報じられたものだ。自公政権になって消えたようだが。
本作が公開されたのは1993年。その前年の92年、週刊文春で有田芳生が桜田淳子らの統一教会問題を報じ、社会的な議論を呼んだ。オウム真理教による地下鉄サリン事件が起きたのは95年3月。そうした時代背景の中で、本作は新興宗教の胡散臭さを描き、コアなファンを獲得した。
90年代の統一教会騒動のとき「新興宗教は信者が4人いれば、教祖がベンツに乗れる」と言われた。本作を見ても分かる通り、金持ちをうまく取り込み、どっぷりと信じ込ませてしまえば、向こうから大金がやってくる。実においしいビジネスというわけだ。実際、司馬は町工場で作らせた仏像を10万円単位の金額で信者たちに販売しようとする。このあたりも壺や多宝塔を売りつけた統一教会の霊感商法と通じるものがある。
こうして和夫をうまく使いながら、現在信者数1000人の教団は勢力拡大に向かおうとするが、そこには障害も待ち受けている。教祖が「自我」に目覚めてしまうわけだが、この先は映画で堪能して欲しい。

ネタバレ注意

追い出された老人教祖は信者にお布施を求めるよりも、信心の大切さを説くようになる。そのため司馬にお払い箱にされるのだ。だから司馬は自分がコントロールできる若くて新参者の和夫を後継者に選んだ。
ところが和夫は「修行したい」と言って滝に打たれ、お堂にこもって断食を続ける。しまいには呉に対して教団のやり方を批判し、出て行けと叫ぶ。和夫はこの教団がインチキだと知った上で仲間に入り教祖を引き受けたのだが、いつしか神に近づきたいという気持ちが芽生えたようだ。
つまり同じ宗教団体の中に司馬や呉のような平気で詐欺を働く人間と、和夫や駒村のような教義に真摯に向き合おうとする人間が共生し、自然の流れで分離されていくわけだ。おそらく世間にあまた存在する一般の宗教団体も同じで、現実にこうした人間ドラマが展開し、愛憎の炎を燃やしているのだろう。

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