不知火檢校

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現代人も恐れをなす盲人の畜生道。61年前の日本人はどう見たのか?

不知火檢校(1960年 森一生監督)

「視覚障害者」というとハンディキャップに負けず懸命に生きている人々のイメージが強い。口がきけないのも耳が聞こえないのも大変な苦労だろうが、目が見えないのはそれより数段苦しいものだと思ってしまう。だから我々は街で白い杖をついた人を見かけると何かしてあげなければならないという気持ちを抱く。また、高橋竹山や辻井伸行、スティービー・ワンダーのなどの卓越した音楽能力に敬意を払うのだろう。
そうした障害者のイメージを大きく傷つけたのが麻原彰晃だったわけだが、彼が地下鉄サリン事件(1995年3月)を引き起こす35年前に公開された本作の主人公・杉の市(勝新太郎)も、麻原に負けず劣らずのワルだ。
座頭の杉の市は子供のころから悪知恵が働き、幼友達の留吉を引き連れて大人から物品を巻き上げている。今日もあどけない盲人の童(わらべ)のふりをして商家の若旦那に手紙を読んでくれと頼み、人の好い若旦那が応じてやると、封書の中にあったはずの1両小判を盗まれたと大声で騒いで、世間体を気にする彼から1両をせしめた。
長ずれば按摩師をしながら、密かに師匠・不知火検校の地位を狙っている。検校は大名に匹敵する盲官の最高位だ。
ある日杉の市は師匠の使いを頼まれる。道中、病気で苦しむ旅人に同情して治療するよう見せかけ、相手のうなじに針を刺して殺害。持ち金200両を奪い、たまたま現場を見かけた生首の倉吉(須賀不二男)というヤクザ者に口止め料を渡す。
江戸に戻り、按摩として出向いた材木屋で強盗に遭遇し、巻き添えで殺されそうになるが、悪運が強いというべきか盗賊の一味が倉吉だったことから、持ちつ持たれつの関係になり、出世を遂げるのだった。
材木屋の妾の妹おきみを保護するふりをして自分の住む長屋に呼び込んで強姦。おきみが入水自殺しと聞くや「あれが死ぬほどのことかよ。てめえが好きで死んじまったんだ。馬鹿な女だ」と平然と言い放つ。金に困った旗本の若妻・浪江(中村玉緒)に50両を貸すと言って近づき、これを力ずくで犯す。しかも帰宅したばかりの何も知らない夫の前で「ゆうべ預けた50両をお返しください」と言ってちゃっかりカネを持ち帰り、その後は5両を貸すたびに浪江の肉体を味わう。やりたい放題の鬼畜ぶりである。
杉の市の非道ぶりの前では、人殺しは当たり前の畜生仕事をする倉吉らも形無し。怖れおののき、いつしか杉の市の手下として下働きをするようになる。彼らを顎で使いつつ、ついには師匠を殺して検校の地位を横取りするなど悪逆のかぎりを尽くす杉の市は、性欲、金銭欲、名誉欲の権化だ。
罪悪感のかけらもない盲人が人を殺め、女人を犯し、大金をかすめ取るのがこの映画の見どころ。21世紀の現代人が見ても、ここまでやるかと呆れるのだから、まだ日本人が真面目だった1960年ごろの観客はさぞかしショックを受けただろう。ちなみに本作が公開された60年は60年安保の風が吹いた年で、6月15日に東大生の樺美智子が国会議事堂のデモの最中に死亡している。
ただ、杉の市の生き方は自分の才覚で出世したいというサラリーマンの願望の具現化でもある。一種のピカレスクロマンだ。杉の市の場合は目が見えないという逆境をはね返して成功する。そこが痛快でもあるのだから、観客の心理は複雑だ。盗賊どもが盲人に心服するのは、科学者を心酔させた麻原のカリスマ性に通じるものがある。「この杉の市をなめるんじゃねえ!」と一喝する姿を見ると、盲目は常人を畏怖させる迫力を有しているのだろうかとさえ思ってしまう。
結末がこれでよかったかは議論が分かれるところだ。昔の映画人は、悪人がのさばるのはモラルに反すると思ったのだろうが、いま本作をリメークしたら、悪徳が栄え続けるほうが観客は納得するかもしれない。

蛇足ながら

勝新太郎は本作の2年後「座頭市物語」(三隅研次監督)を世に送り出し、その後、座頭市は伝説的なシリーズ化に至った。ご存じの通り、座頭市は盲目の居合の達人。渡世人であり、按摩師でもある。そのためこの「不知火検校」は座頭市の先駆けと称される。ただ、座頭市は「あっしはやくざな渡世人だ」と言いながら、弱い人々を助け、私利私欲に走る悪代官ややくざの大親分を成敗する。杉の市とは正反対の正義漢だ。勝のヒット作「悪名」シリーズは61年に、「兵隊やくざ」シリーズは65年に始まっている。
勝新太郎は62年に本作で共演した中村珠緒と結婚した。勝は31歳、玉緒はまだ23歳だった。

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