上意討ち 拝領妻始末

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原作にない「愛」をめぐるナゾ

上意討ち 拝領妻始末(1967年 小林正樹監督)

映画「切腹」の原作「異聞浪人記」を執筆した作家、滝口康彦による短編時代小説「拝領妻始末」の映画化。ベネチア国際映画祭批評家連盟賞などに輝いた。
会津藩馬廻り役の笹原伊三郎(三船敏郎)は、藩主松平正容の側室お市の方(司葉子)を長男与五郎(加藤剛)の妻に拝領せよと重臣から命じられる。市は正容の子、菊千代を産んだが、あることで不興を買い遠ざけられていた。伊三郎は重臣たちのごり押しに負けて市を長男の妻に迎える。
やがて市と長男との間に愛らしい女の子が生まれ、円満に暮らしていたが、藩主の嫡男が急死し菊千代が世継ぎとなるため、今度は市を返上せよと同じ重臣から迫られる。これを伊三郎親子は拒絶し、凄絶な斬り合いを繰り広げるのである。武士道残酷物の一種だが、違和感を覚える部分もある。気持ちが揺れる与五郎と市に、伊三郎はこう言うのだ。
「わしはおまえたち2人の愛というものの美しさに打たれたのだ」
「愛」なんて言葉を江戸時代の武士が使うはずがないし、原作にもこの言葉はない。そもそも原作にチャンバラシーンはない。藩命に背いた伊三郎親子は押し込め(監禁)処分を受け、奥御殿に連れ戻された市が病死して終わるのだ。では、脚本家の橋本忍はなぜ「愛」を使ったのか。
原作が、大ざっぱにいえば女の引っ張り合いであり、武士道の不条理とまではいえないため、愛情物語にしたのではないか。愛のために戦うとなれば、観客の共感を得ることができる。
映画「武士の一分」(山田洋次監督)でも、同じような議論があった。主人公は重臣に妻をもてあそばれて意趣返しを遂げるが、果たしてそれが武士の一分といえるのか。愛情のもつれではないかというのだ。
橋本忍に真意を確かめようもないが、クライマックスの斬り合いは迫力満点である。伊三郎が幼女を抱いて出奔、朋輩の浅野帯刀(仲代達矢)を斬り伏せ、鉄砲隊の銃撃を受けるシーンは圧巻。小林監督の演出が冴える。

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