為政者への怒りは70年安保闘争の出発点か
大魔神(1966年 安田公義監督)
かつては年末年始になると、この「大魔神」がテレビで放映されていた。60歳以上の人には懐かしい作品だろう。
ときは戦国。丹波の村では、武神像によって山の魔神が封じ込められていた。村人が魔神を鎮める祭りを開いているころ、城内では家老の大舘左馬之助(五味龍太郎)が謀反を起こして城主の花房忠清を殺害。忠清の幼い嫡男・忠文は家来の小源太(藤巻潤)の手で城を脱出する。
10年後。忠文(青山良彦)は逞しく成長し、妹の小笹(こざさ=高田美和)とともに山中に隠れ住んでいた。城下では左馬之助が圧政を敷き、領民は塗炭の苦しみに喘いでいる。その様子を探りに行った小源太が捕まり、助けに向った忠文も捕縛。さらに左馬之助は武神像を破壊しようとする。そこに嵐が起き、小笹が祈ると魔神が目覚め、悪人を退治するのだった。
音楽担当は伊福部昭。伊福部といえば、あの「ゴジラ」シリーズを手がけた音楽家としてつとに有名だ。「座頭市」シリーズや「帝銀事件 死刑囚」など時代劇、現代劇の両分野で数多くの名曲を残したが、筆者はこの「大魔神」の曲が一番好きだ。物悲しい響きを感じるのである。
公開当時、特撮映画では東宝のゴジラと大映のガメラが人気を集めていたが、大映は新たに大魔神を投入した。ゴジラは東京の街を破壊し、ガメラは少年と友情を結ぶという逃げ道を確保した上で人間と敵対した。
一方、大魔神は悪い人間を成敗する。巨悪の為政者を退治するという点で69年に始まったドラマ「水戸黄門」や勝新太郎の座頭市に通じるものがある。大恩のある主君を裏切った左馬之助をとことん悪者に描いたため、当時子供だった筆者にとっても分かりやすいストーリーだった。
左馬之助は小源太を捕え、火責め水責めの苛烈な拷問を加える。家来たちは大魔神の石像を平気で壊そうとし、額に大型のクイを打ち込むなどまことに罰当たりな行為に走る。そのあげく忠文と小源太を磔で殺そうとするのだ。そこを大魔神が救出にやってきて、左馬之助に正義の鉄槌を加える。
つまり本作は勧善懲悪の時代劇としても十分楽しめる上に、13分間にわたる大魔神の大立ち回りも見られるのだから、1粒で2度おいしい痛快作だ。新ブルーバック方式の合成技術による映像も迫力がある。とくに山が崩れ、大魔神が全身を現すシーンは圧巻。特撮の不自然さを感じさせず、感動的ですらある。
しかも日本古来の民間伝承をうまく融合させた。山奥に住む老婆の巫女の恐ろしげな雰囲気。お山の神様への土俗的な信仰。高田美和演じる小笹の切ない願いは当時の日本人の心の琴線を刺激するに十分だった。
巫女が代々守ってきた大魔神が小笹の願いを聞き入れ、埴輪の顔を怒りに一変。左馬之助の横暴な政治に怒って忠心と若殿を救い出すために立ち向かう。晴れ渡った空が一転して曇り、強風が吹き荒れ、彼方からドーン、ドーンという足音が響く。このときの地響きだけでも神様のありがたみが伝わってくるのだ。金剛力士のような目で見つめられると、悪人は恐怖で動けなくなるという設定だった。
大魔神は城の石垣を粉砕し、城門をぶち壊し、見張りの侍がいる櫓を倒してひたすら進む。目指すは巨悪の首魁・左馬之助だ。結末で左馬之助が逃げ惑い、大魔神の大きな手に捕えられて成敗される。その最期はやや残酷な描写だったが、あれだけの極悪非道をやったのだから仕方ない。というか当然の報いだろう。
蛇足ながら
映画「大魔神」がゴジラやガメラと違うのは権力者が民衆を暴力的に支配するという点だ。当時はアジア太平洋戦争が終わって21年。日本国民の中にはまだ、軍部や保守政治といった権力者に対する警戒心があった。長らく安倍政権のやり放題を野放しにし、歴史の本質を見ようとしない現代人とイデオロギーの大きな差があった。こうした反権力ともいえる意識が70年安保の学生運動の出発点になったと考えることもできるだろう。
ただ、本作のラストは理解に苦しむ。大魔神は左馬之助を殺したあと民衆を踏みつぶそうとする。正義の味方が暴走してしまうのだ。
なぜこうなるのか。
もしかしたら、聖書にある「怒りの葡萄」の要素を取り入れたのではないか。神が人間の行いに怒り、樽の中の葡萄として踏みつぶす一節だ。ジョン・スタインベックの長編小説「怒りの葡萄」のタイトルはここからきている。だが、逆上した大魔神は「お怒りをお鎮めくださいまし」と哀願する小笹の涙に打たれて山に帰るのだ。要するに本作は美しき小笹と大魔神の心の連帯を描いた。怖い顔をしていても、神様は美人に弱いのだ。
公開時、高田美和は19歳。天女のように美しい。小笹という名前の響きも素晴らしい。ちなみに本作の同時上映は「大怪獣決闘 ガメラ対バルゴン」。当時の小学生の入場料が50円だったのを覚えている。