ラスト サムライ

ハリウッドが魅せられた“西郷隆盛”の最期

ラスト サムライ(2003年 エドワード・ズウィック監督)

ハリウッド製作による日本の西南戦争をモデルにした作品だ。この一作で渡辺謙と真田広之は世界に知られる俳優となった。とくに渡辺のその後の活躍は目を瞠るものがある。人間、どこに転機があるか分からないものだ。
1876年、南北戦争で無辜の先住民(インディアン)を虐殺したことに良心の呵責を感じるネイサン・オルグレン大尉(トム・クルーズ)は日本政府の大村大臣(原田真人)から、政府軍の軍事指導を依頼される。高額の報酬を突きつけられ、軍事顧問として訪日したネイサンは新政府と対立する勝元(渡辺謙)の存在を知る。
政府軍は勝元軍と激突。ネイサンは捕虜として勝元の領地に連行される。日本の民衆に接し、勝元の人柄に引きつけられたネイサンは剣の修行に没頭。そんな折、勝元は政府から呼び出しを受け、大村ら元老院に操られた天皇の姿を目の当たりにする。監禁された勝元はネイサンらの手助けで脱出。政府軍との最後の戦いに挑むのだった。
勝元のモデルは1877(明治10)年の西南戦争で敗死した西郷隆盛。大村は大村益次郎と誤解されがちだが、益次郎は69年に死亡している。勝元と直接対峙し、蓄財を指摘されたことから山県有朋がモデルだろう。
日本文化の紹介映画でもある。冒頭は「古(いにしえ)の神が剣を海に浸け、それを引き上げると四つの雫(しずく)が滴(したた)り落ちて日本列島になったそうな」という古事記の一節のナレーションで始まる。勝元の領地では農民が貧しいながらも満ち足りた生活をし、ネイサンは「人々は礼儀正しく、目覚めたときから自分の務めに全力で励む」と評す。観光ガイドのような褒め言葉に尻がくすぐったくなるが、欧米人にとって侍のストイックな生き方は魅力なのだろう。
ネイサンは修行の中で無心の境地に至り、刺客集団を切り倒す。米国の南北戦争で弱者を殺した彼が滅びゆく部族の一員として戦うところがミソ。つまり弱者であるインディアンに銃弾を浴びせたことへの贖罪のように、政府という権力に追い詰められた勝元にシンパシーを覚えるわけだ。米国で犯した過ちへの罪滅ぼしを遠い日本で果たしたことになる。報酬に釣られて日本にきた男が勝元とともに死のうと決意する展開はネイサンの人間再生の物語と解釈していい。
こうした人間ドラマにネイサンと未亡人のたか(小雪)の恋模様が色を添える。小雪の顔は相変わらず般若のように見えるが、米国人が求める東洋人の清楚なクールビューティーの要件を満たしているのだろう。170センチの長身なのも欧米向きだ。
見どころはラストの決戦だ。勝元はゲリラ戦で敵を翻弄し、決死の騎馬戦に至る。彼は古来より受け継がれた侍の常道に従い、いかに見事に命を散らすかだけを考えていた。だからネイサンが語る大昔のギリシャ軍が全滅した史実に不敵な笑いを浮かべるのだ。公開時の劇場で、戦の準備の場面に隣りの席の女性客がすすり泣いていたのを思い出す。死を覚悟した戦争というプロジェクトに日本人は感激するものらしい。

蛇足ながら

ただ、序盤で勝元が敵将の首を刎ねる場面にはやや違和感を覚えた。「たあぁーっ!」と大声を張り上げて大刀を振り下ろすが、斬首の際にこのような奇声を発する必要はない。これでは勝元が首切りに対する自己の恐怖心を封殺しようとしているようだ。腰抜けに見えるのである。そもそも江戸時代の介錯人・山田浅右衛門なども静かに首を落とした。現代に伝わる無外流をはじめとした居合道の多くは無言で剣を振るう。介錯の際に声を出すなら、映画「御法度」(99年)の松田龍平のように「御免」と言うくらいがちょうどいい。
さらに蛇足を一言。西南戦争で政府軍兵士は薩軍の猛攻に怯んだ。これを不安視した山県は82年、「軍人の死は羽毛よりも軽い」「上官の命令は天皇の命令」とする「軍人勅諭」を天皇の名で下した。この精神論が拡大解釈され、アジア太平洋戦争での人命軽視=玉砕・特攻隊にエスカレートしたと指摘する歴史学者がいる。

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