武士の一分

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盲目の下級武士VS達人の重役 妻を汚された男が挑む真剣勝負

武士の一分(2006年 山田洋次監督)

藤沢周平の時代小説を映画化。「たそがれ清兵衛」(2002年)、「隠し剣 鬼の爪」(04年)に続く山田羊次監督による藤沢シリーズの完結編だ。
舞台は藤沢の小説に毎回登場する海坂藩。藩主の毒見役を務める三村新之亟(木村拓哉)は妻の佳世(檀れい)とともにつましく暮らしている。そんなある日、いつもの毒見をしたところ、急に具合が悪くなり、城中で倒れる。食べ物を飲み込む直前に知らせたため、藩主は無事だったが、新之亟は昏睡。原因はつぶ貝の毒が当たったと判明するも、広式番の樋口作之助(小林稔侍)は切腹を命じられる。
荷車に乗せられた新之亟は自宅に戻り、3日後に目を覚ましたものの、毒のせいで視力を失っていた。わが身の不運を嘆き、自殺しようとする新之亟を佳世と中間の徳平が止め、親戚一同は今後の処遇を検討する。このままだと新之亟は30石の俸禄を召し上げられた上にいま住んでいる役宅を追い出されるかもしれないのだ。
一同が頭を抱える中、佳世は大番頭の島田藤弥(坂東三津五郎)と面識があり、先日、町で再会したことを告げる。親戚たちは実力者の島田に頼るよう命じ、安堵の笑みを浮かべる。
まもなく新之亟の俸禄は現状維持と決まり、屋敷も今のまま使い養生に務めよとの主命が下る。これで暮らしの不安は消えた。だが佳世の帰りが遅くなりがちなことに新之亟は不審を抱き、徳平に佳世を尾行するよう言いつける。その日、墓参りの佳世の後をつけた徳平が見たのは城下の待合い茶屋に入る佳世の姿だった。実は佳世は新之亟の処遇を相談するため島田の屋敷を訪ねた際、無理やり男女の関係に引きずり込まれ、その後も「亭主に知られていいのか」と脅されて呼び出しを受けていたのだ。すべては新之亟を思ってしたことだった。だが佳世の口から秘密を聞いた新之亟はその晩、佳世を離縁してしまう。
島田への憤りを抱く新之亟は剣術の師である木部孫八郎(緒形拳)の道場を訪ね、稽古を頼む。同じころ、朋輩から新之亟の家禄安堵は島田の進言のおかげではなく、藩主が決めたことだとの連絡を受ける。つまり島田は藩主の決定を自分の功績のように話して佳世をだまし、貞操を汚したのだった。ここに至って新之亟は新陰流の達人の島田を討つことを決め、果し合いを申し込むのだが……。
木部から免許皆伝を受けた新之亟は若くして隠居し、町人の子供も通える町道場を開く夢を抱いていたが、視力を奪われてしまった。目の見えぬ体となって夢を砕かれた上に妻の貞操まで蹂躙されるとはまさに踏んだり蹴ったり。彼は権力者の欲望の犠牲となった佳世の心情を思いながら果し合いの場に向う。昔の任侠映画ではないが、辛抱と爆発のドラマだ。
考えてみれば、ストーリーは単純だ。目を奪われた男が妻を傷つけられ、決闘を申し込むだけ。上映時間121分のあいだ観客を飽きさせず、興行収入41億円を達成したのは桃井かおり演じるうるさい叔母や笹野高史の中間役のおかげだろう。まるで歌舞伎のように単純な話を深いドラマに昇華させた。見えない目で暗がりから佳世を睨む木村の演技も悪くない。
新之亟が毒入り料理を口にする際の雷鳴、帰宅時のどしゃ降り、果し合いの場で木の葉を舞い上がらせる強風などが、新之亟が受けた試練を強調している。夏から晩秋に至る季節の移り変わりも美しい。
新之亟のような体に障害を負った人物が剣をふるう話では「丹下左膳」と「座頭市」が有名だ。丹下左膳は右目と右腕を奪われた浪人の話。「やいやいやいやい」と威勢のいい掛け声をあげる娯楽作のイメージが強い。
一方、勝新太郎が演じた座頭市は同じ娯楽作でもどこか悲壮感があった。「座頭市はかわいそうすぎて見られない」という女性もいるくらいだ。市は「こちとら目が見えねぇんだ。そちらから風を起こしてくれねえと斬れねえぜ」と敵を挑発し、仕込み杖を使った居合の技で数人を瞬殺する。この「武士の一分」の新之亟はどちらからというと座頭市タイプ。重いのだ。
島田の造形はどこの社会にもいる卑怯な人間だ。他人の不幸を利用しておのが欲望を遂げようとする。序盤は厨房で料理人たちに寛大な処置を言い渡すが、作之助を切腹に追いやって冷徹な面を現し、ついには他人の妻女に手を出した。
ただ、この憎むべき悪漢役に山田洋次監督は歌舞伎界のスター三津五郎をあてた。これは悪人は悪人だが、スクリーンに梨園の気品を漂わせることで映画全体が下劣な雰囲気に染まらないようにとの計算ゆえだろう。同じワルでも小日向文世や香川照之が演じたら、また違った感覚の仕上がりになったはずだ。

ネタバレ注意

本作の終盤には2つの見どころが用意されている。クライマックスの斬り合いと、新之亟と佳世の再会だ。枯れ葉の舞い散る河原で佳世の襷を鉢巻きにした新之亟は「ともに死するをもって真となす。必死すなわち生くるなり」と自分に言い聞かせ、島田と刃を交える。自分は死ぬ。だが相手も道連れにするのだと「死なばもろとも」の決意である。「必死すなわち生くるなり」で伊達政宗の「生中に生なく、死中に生あり」を思い出した観客もいるだろう。
この斬り合いで島田は朽ちた小屋の屋根に上って新之亟の様子を伺い、飛び降りざまに背後から襲いかかる。だが瞬時に振り向いた新之亟の一撃によって左腕を切り落とされた。盲目の新之亟がなぜこのような技を使えたのか。
お叱りを覚悟で前述した座頭市の風の理論を当てはめれば、高い位置から舞い降りた際に風が起こり、これを新之亟が盲人の鋭い五感で感じ取ったと考えていいかもしれない。袴のふくらみも風の音を増幅したことだろう。荒唐無稽と思われるかもしれないが、武芸者は一瞬の気配を感じ取る。筆者は以前、ある古武道の道場に取材に行った。その際、そこの師範から「侍が人を背後から斬るとき、刃が風を切るひゅっという音が立つと相手に気づかれて一撃をかわされてしまう。ゆえに刀は棒樋を彫っていないもののほうが良い」との説明を受けた。棒樋とは刀身の峰に近い部分に彫られた長い溝のことだ。
ラストは佳世を迎え入れる新之亟。彼が煮物の味で飯炊き女が佳世だと気づいたのは三行半を突きつけたものの、佳世を忘れることができず、後悔の念を抱いていたからだ。漆黒の闇の中で佳世の顔と声、肌のぬくもりを思い返し、その手料理を懐かしく記憶に蘇らせていたのだろう。だから島田を斬ったとき、「これで佳世の仇は討った」ともらしたのだ。
かくして佳世は新之亟の胸に飛び込み、物語は大団円を迎える。「武士の一分」は江戸時代の愛情物語なのである。

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