金持ちが貧乏人の命でルシアンルーレットの博打を楽しむ
13/ザメッティ(2005年 ゲラ・バブルアニ監督)
拳銃の弾倉に弾を1発込め、こめかみに向けて引き金を引く――。映画「ディア・ハンター」で知れ渡ったロシアンルーレットを題材にした映画。フランスとグルジアの合作だ。
セバスチャン(ギオルギ・バブルアニ)はグルジア移民の若き職人。一人で家族を養っている。貧しい暮らしの中、仕事先の一見セレブの屋敷で一通の封書を拾い、乗車券を入手する。何も知らずに列車に乗り、たどり着いたのは森の奥の屋敷。実は男たちがロシアンルーレットに挑む賭場だ。セバスチャンは逃げ出すこともできず、プレーヤーとして参加するはめになる。
屋敷の中では13人の男たちが円状にずらりと並び、与えられた拳銃に一発だけ弾を装填。自分の目の前の男の後頭部に銃口を当てて天井の電球を見つめる。電球が消えると同時に全員が引き金を引くルールで、銃声とともに男たちがバタバタ死んでいく。運が良ければ最後まで生き残り、高額の報奨金にありつけるが、装填弾数が2発、3発と増え、発射の確率は高まる。つまり死にやすくなるのだ。
プレーヤーはカネに困ったどん詰まりの連中ばかり。ある者は自分に銃口を向けているライバルを睨んで呪詛の言葉を吐き、ある者は恐怖にかられて暴れ出し麻薬を打たれてゲームの場に引き立てられる。死に直面した極限の心理が白黒映像に凝縮し、息苦しいほどグロテスクな恐怖で迫ってくる。
高級車で乗り付けた金持ちどもがプレーヤーの"馬主"で、1回あたりの賭け金は最低10万ユーロ(約1400万円)。競馬の馬主のようなもので、自分のプレーヤーが生き残れば大金が転がり込む。もしプレーヤーが死んだら、他人の〝馬〟に乗り換える。
要するに富める者が貧しき者の命でギャンブルを楽しむわけだ。馬主のひとりが「今日はたった13人か。トルコでは42人だった」と不満を漏らすのが印象的だ。奴隷同士を戦わせて賭けをしていたローマ時代と変わらない。映画「グラディエーター」(2000年)を思い出してしまう。
警察密かに内偵し、殺人ゲームの現場を押さえようとする。こうした秘密クラブが実際にあるかどうかは知らないが、ゲラ・バブルアニ監督が劇中に捜査当局を出したことで観客は「この世には禁断の世界があるようだ」とリアルな恐怖を感じることに。警察の存在は重要な味付けとなっている。
金持ちが貧乏人の命を使ってギャンブルを楽しむ。同じ人間でありながら、そこにはカネを持っているかどうかで立場の上下関係が成立しているわけだ。そういう点で本作は血生臭い裏社会のスリルを表現しながら、実はヨーロッパを中心とした貧困問題に言及していることになる。
米国などは今や0・1%のスーパーリッチと貧困層を含んだその他大勢に分解されるそうだ。トランプタワーやマー・ア・ラゴなどの不動産を持つドナルド・トランプは借金の有無も囁かれているがスーパーリッチに属し、ラストベルトなどの迷える支持者たちを扇動してきた。これも見ようによっては、富を持つ者と持たざる者の分離であり、持たざる者の一部はおのれの不遇への欝憤を晴らすように昨年1月、議会議事堂で暴れ狂った。本作の描いたギャンブルの手駒と同列で語れないが、それでも貧困層が操られ、利用されているという点で同じような腐臭を嗅ぎ取ってしまう。
とくに印象的なのが太った男が体力的にダウンする場面。男は緊張感から、立っていられなくなる。だが「だったら家に帰って寝てろ」とは誰も言わない。椅子に座らせて死のゲームを続行する。貧者の命で博打をとことん楽しもうとするわけだ。こうなると映画は単なるスリラー作品を越えて、一種の寓話の領域に達している。この寓話を人間のエゴと解釈するか、それとも富の偏在がもたらす階級社会の悲劇とするかは見る人のそれぞれの価値観で決まる。ただ、そこに絶望的ともいえる恐怖のトンネルが口を開いているのは間違いない。
グルジア系フランス人のゲラ・バブルアニ監督は本作をハリウッドでリメークし「ロシアン・ルーレット」(10年)として送り出したが、やはりオリジナルのほうが残酷さが際立っているような気がする。