「黒の試走車」 今見てもドキドキする61年前の自動車業界 産業スパイの攻防戦

「黒の試走車」(1962年 増村保造監督)

まず断っておくが、この映画は今から61年前、1962年の作品だ。大昔の映画である。

そのころ日本の自動車産業はライバル社の新車情報をめぐってスパイ戦を繰り広げていた。映画を盛り上げるためのつくり話ではない。実際のビジネスの現場でも生臭い競争が繰り広げられ、作家の梶山俊之はそこに目をつけてこの原作を書き下ろした。本作は梶山の原作を大幅に手直しして脚本に改め、映画チックに分かりやすく、なおかつエキサイティングにまとめ上げている。

1960年、タイガー自動車ではスポーツタイプの新車パイオニアを発表するべく社内で検討が重ねられていた。だが他社にも同じ動きがあるため、ライバル社の情報が欲しい。

そうした産業スパイの役割を担っていたのが社内の片隅にある企画一課だった。部長の小野田(高松英郎)の下、主人公の朝比奈(田宮二郎)ほか数人の男たちが秘密厳守で活動している。

彼らが喉から手が出るほど欲しがっているのがライバル社のヤマト自動車の新車情報。ヤマトの開発担当重役の馬渡(菅井一郎)は元陸軍中佐で関東軍の特務機関員というやり手である。

朝比奈は恋人の昌子(叶順子)を馬渡の行きつけのバーに勤めさせ、彼の行動を探らせる。同時に偽名を使って馬渡に接近。パイオニアのニセの図面を買わせようとするが、あっさりと正体を見破られてしまう。

ヤマトの情報を入手するために朝比奈らはコピー機メーカーから印刷会社まで刑事のようにあちこちを探る。その結果、ヤマトの課長がコピー機の会社からリベートを受け取った事実をつかみ、この課長を拉致するのだった……。

ネタバレが心配なので詳しくは書けないが、この映画はわずか94分の中にさまざまな要素が詰め込まれている。新車開発の苦労、業界紙記者の暗躍、スパイ活動のえげつなさ、買収される人間の悲哀、家庭を顧みない小野田の猛烈社員ぶり、水商売ホステスの立ち回り……。

これらの要素を盛り込みながらも、ストーリーは極めて分りやすい。しかも白黒画面の悲壮感が緊迫感を高める。

スパイというと007シリーズのジェームズ・ボンドを思い浮かべてしまうが、ボンドみたいな派手なドタバタはなく、比較的穏やかに物語は進む。だからこそ実際にあり得るストーリーとして感情移入してしまう。というか、見終わったときに007よりずっと心に残るものがあるのだ。

こうした作品がかつての東京五輪の2年前に製作されていたことに改めて驚かされる。昔の映画作家たちは骨太なテーマに大真面目で取り組んでいた。さすがは「映画は大映」である。

老練の馬渡は関東軍出身。なにやら瀬島龍三(元伊藤忠商事会長)を思わせる設定だ。彼の会社の名がヤマト自動車というのも意図的なネーミングだろう。

この馬渡に立ち向かう小野田は戦後派の人間だ。つまり戦中派の元特務機関員と戦後派サラリーマンがスパイ活動でしのぎを削るという設定。当然ながら軍人上がりのほうが一枚も二枚も上手であり、だからこそ朝比奈の行く手に謀略と妨害、裏切りが立ちふさがる。

一転、二転、三転ととにかく予測のつかない展開が続き、あっという間に終わってしまう。この当時の映画人は今のようにダラダラと作品を撮るのではなく、短い尺の中にピッタリと物語を収めて感動させるワザに長けていた。その歯切れの良さに観客は爽快感を覚えたのだ。

それにしても菅井一郎が演じる元軍人の小憎らしいことよ。こうした憎まれ役は小沢栄太郎が天下一品と思っていたら、どっこい菅井も負けず劣らずの熱演。いや、自然な演技で敵役を演じている。

もう一人見逃せないのが朝比奈の恋人・昌子の存在だ。会社のためにしゃかりきに動き回る朝比奈に対して、昌子は常にクールだ。独身のホステスだが、結婚を求めることはない。「このままの関係でいいの」と言い通す。

その姿は男たちの熱狂に巻き込まれないよう朝比奈を牽制しながら、シニカルな笑いを投げつけているようにも思える。昌子によって、高度経済成長の陶酔の対極の女性像を造形したかのようだ。さらに深読みすれば、昌子の冷めた表情は男たちが兵士として狂奔した「大東亜戦争」インチキの正義に対する皮肉な嘲笑とも解釈できるだろう。

蛇足ながら

本作を見て「こんなスパイ戦が本当にあるの?」と眉に唾する人もいるはずだ。実は筆者もその一人だったが、動画サイトにアップされているNHKアーカイブス「現代の映像」を見て、ヘェ~ッと唸った。

この映画の2年後の1964年に放送された「特命試走車」の回。テストドライバーの難波靖治を中心に、自動車メーカーの新車開発に密着したドキュメンタリーだ。

難波は部下にこう訓令する。

「自動車会社としては各社、特にスパイ合戦も多いことですし、我々としては十分注意しなければならない。電車の中あるいはバスの中においてもこういう話をして隣りに誰が座っているかということも考えなければならんと。とにかく24時間、我々は起きてから寝るまで、いわゆる24時間拘束されている」

ナレーションによれば、自動車業界は最も企業競争が激しい世界。そのため極端な秘密主義が取られている。

高い塀で外部を遮断した工場の敷地には開発部門の研究施設があり、社長と担当重役以外は立ち入り禁止。ここでの実験を特命実験と呼ぶ。その特命実験の成果は会社の将来を左右するため、研究費用は年間に100億円を遥かに超える。

30人の自衛隊出身者によって組織された警備隊が四六時中、工場の周辺を監視してライバル社のスパイ活動を防いでいる。新車一台を売り出すには3~5年かかり、3、4年売り続けなければ採算が取れない。だから企業は互いの秘密を探り合っており、新車開発部門は最も狙われやすいという。

番組の中で、テストコースにヘリコプターが飛来する場面がある。これをスパイヘリと判断した係員が慌ててフラッグを振ると、コースに出ていたクルマは次々と格納施設に戻ってくる。

60年代半ばでも自動車業界ではこのようなスパイ活動が行われていた。現在はどうなっているのだろうか。取材したいものである。

ネタバレ注意

本作の一番の見せ場は朝比奈が昌子に、スパイとして馬渡とベッドを共にしてくれと頼む場面だ。昌子は見事に成功し、ライバル車の販売価格を盗み出すが、同時に朝比奈との別れを切り出す。

一方、朝比奈は小野田の冷徹なスパイ意識に疑問を抱いて辞表を突きつけ、昌子との関係は純愛に発展する。

たしかに爽やかな終わり方だが、どこか物足りなさを感じてしまう。当時のサラリーマンは今よりずっと出世願望が強かった。右も左も木下藤吉郎である。ましてや産業スパイたちは出世と引き換えに危険な仕事をしているのだ。

ならば朝比奈は正義感の男ではなく、もう一段のあざとさが欲しかった。ピカレスクロマン風に終わるという手もあったはずだ。そこが少し残念だ。

ただ、増村監督は4年後の「陸軍中野学校」(66年)では主人公に恋人を毒殺させている。陸軍スパイの三好(市川雷蔵)は雪子(小川真由美)の死にゆく姿を見つめて、

「この美しい顔、この美しい体、思わず私は目をそむけた」

とナレーションで語る。

「黒の試走車」も「陸軍中野学校」もスパイの悲しき宿命を語った作品。未見の人は両作品を同時に見て欲しい。見比べたら面白さが3倍、4倍になるはずだ。

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