「遠雷」 新妻を迎えた男と、女に翻弄された男。若者が陥る愛欲の泥沼

新妻を迎えた男と、女に翻弄された男。若者が陥る愛欲の泥沼

遠雷(1981年 根岸吉太郎監督)

ヌードを披露しながら、あまり評価されなかった女優は少なくない。「いちげんさん」(1999年)の鈴木保奈美や「新・雪国」(2002年)の笛木優子、「松ケ根乱射事件」(07年)の川越美和ら。川越はひき逃げ死体としてヘアを披露し、その翌年、35歳の若さで死去した。「宮本から君へ」(19年)の蒼井優は小ぶりの美尻を披露したが、作品は耳ざわりな絶叫の泣き場面だけが記憶に残る無残な出来だった。ハリウッドではメグ・ライアンが「イン・ザ・カット」(03年)で脱ぎ損を味わっている。
この「遠雷」のヒロインの石田えりは数少ない成功者と言えるだろう。石田えり、20歳のヌード。ずんぐりした体型は当時でも「いかにも日本人だな」と言われた。
栃木県宇都宮市でトマトを栽培する満夫(永島敏行)は、ガソリンスタンド勤務のあや子(石田)と見合いした当日にラブホテルに誘うなど、やりたい盛りだ。そうした中、スナックを営む人妻のカエデ(横山リエ)と深い仲になり、トマトのビニールハウスに呼んで交合。ところがカエデが親友の広次(ジョニー大倉)とも深い仲になったため、殴り合いの果てに広次と絶交する。そのあげく広次は農協から降ろした100万円を持ってカエデと出奔。満夫は広次を探すが見つからない。そうこうしているうちに、あや子は結婚に乗り気なるが、満夫の母と姑の不仲を見て結婚に及び腰になる。2人は紆余曲折を経ながらも晴れて結婚に至り、自宅に近所の人々を集めて披露宴を行う。その夜突然、広次が舞い戻るのだった……。
81年の若者はまだ肉食系男子で、満夫はいきなりハンドルを切ってあや子をラブホに連れ込み、巨乳の手触りを楽しむ。破天荒なキャラだが、演じたのが万年優等生の永島敏行だけに満夫のキャラは物語の狂言回しに近く、周囲の人物のほうが面白い。満夫の父(ケーシー高峰)は愛人のチイ(藤田弓子)と家出してスナックをやらせ、彼女と分かれて自宅に戻るや地元の市議会議員で一儲けしようと企み、選挙違反で警察に引っ張られてしまう。不思議なことに、満夫の母もチイもこのいい加減な男にぞっこんだ。
東京で働く兄は家のことは弟に押し付け、「俺の300万円をよこせ」と金の無心。カエデは男たちとやりたい放題に情交し、その夫(蟹江敬三)は妻の浮気を止められないと、出てくるのはダメ人間ばかり。出番は少ないが、ケーシー高峰の崩れたキャラと、蟹江敬三の自嘲の笑い声がストーリーを引き締めている。
立松和平の原作による青春映画だが、テーマは女の悪魔性だ。カエデはメンヘラさながらの身勝手なウソをつく。自分から満夫を誘っておきながら、肉体関係が広次にばれると「無理やり犯された」とウソを言ってごまかそうとする。まだ25歳の広次は年上の美女の色香にメロメロなため、女の言い訳を妄信。家出したのはカエデを自分だけのものにしたかったからだ。
昔から「女の股ぐらには悪魔が潜んでいる」というが、本作のカエデを見ると、この言葉が金言として迫ってくる。女の防衛本能とでもいおうか、自分を被害者に仕立て上げて安全地帯に逃れようとするのだ。
そういえば2015年に起きた弁護士局部切断事件も女のウソが原因だった。弁護士と不倫関係にあった人妻が浮気が夫にばれたため「酒を飲まされ性行為を強要された」と虚偽で切り抜けようとしたところ、格闘家の夫が妻の言を真に受けて弁護士を襲撃。一撃を受けて気絶している間に男根のみならず睾丸まで切断した。女の股ぐらの悪魔が馬鹿な亭主をそそのかして善良な市民の体の一部を切り取らせ、残りの人生を台無しにしたわけだ。同じように本作の広次はカエデの魔性に翻弄され、悲劇的な結末に向かう。
カエデは自分の非を誰かのせいにしないと生きていけない人間なのだろう。こうしたキャラは女性に限らず男にもいるものだが、本作はカエデという多情女の悪魔性を根源に据えて若者の転落のメカニズムを観客に突きつけた。美女をめぐる三角関係で親友同士が殴り合うのは米国映画「ラスト・ショー」(71年)にも見受けられる光景。古今東西の普遍的テーマだ。

ネタバレ注意

ラストはカエデと出奔した広次が帰ってくる展開。満夫とあや子の祝言の夜に突然現れ、「カエデを絞めた」と明かす。婚礼という晴れの日に、人殺しの死穢が訪れる運命の皮肉。同じ町で肉体労働にいそしんでいた2人の青年が片や新妻を迎えて出産を心待ちにし、片や人妻を殺して戻ってくる対比はいささかできすぎな感もあるが、ジョニー大倉の演技がその不自然さを見事にカバーしている。薄暗いビニールハウスで広次が語る7分30秒のモノローグこそがこの映画のキモ。見ごたえ十分だ。言葉だけで破滅に向かう男女のすさんだ姿が目に浮かぶ。
本作の公開当時、筆者は立松和平の原作を読み、この映画を見た友人たちを前にジョニー大倉の口真似をして「海を見てたんだ。日が照って、漁船が走ってよ。スベスベした女の柔肌ひっかいたみたいだったぜや」とセリフを暗唱していた。友人たちもこのモノローグ場面が好きだったのでけっこう受けた。それは筆者も彼らも広次と同年代で、愛欲という煩悩を抱えて呻吟していたからだろう。
村を出奔してからも、カエデは身勝手な言い分を繰り返して若者に無理難題と刃を突きつけていた。広次はその泥沼から抜け出ることができず、女の命を奪うことで決着をつけてしまった。満夫が言うように、2人の立場が入れ替わっていれば満夫が殺人者になったかもしれない。運命はほんのわずかなことで大きく逆転する。理性の違いもあるだろうが、満夫が難を逃れたのは彼にあや子という理想的な女が存在したからとも考えられるのだ。
満夫の「500万円渡すから逃げろ」という申し出を拒否し、広次は自首を決意する。「ほっぽらかしにしてても苗が育ってるんで涙が出た」「稲刈り頼んだぜや」と農民らしい感想を漏らし、宴会の歓声を「村が戻ってきただぜや」と懐かしむジョニー大倉の語りが実にいい。哀愁を帯びた声が心の中で泣き、観客の胸と共鳴する。彼が出演していなかったら、この作品の評価はずっと低かったはずだ。
ジョニー大倉は2014年11月に62歳で死去。訃報を聞いて本作の熱演を思い出した映画ファンもいるだろう。

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