「17歳」 少女はなぜ見知らぬ男たちに体を売るのか?

少女はなぜ見知らぬ男たちに体を売るのか?

17歳(2013年 フランソワ・オゾン監督)

数年前、AV関係者から「いまや若い女性の3割はAV出演の経験者」と言われた。プロのAV女優のほか、アルバイターを含めると相当な数になり、3割もありえるという。地方もののAVでは塾の講師をしている女性などが好奇心とカネ欲しさで気軽に出演している。けっこう美人が多い。
風俗界も同様だ。女性の何割がヘルス嬢やソープ嬢、援助交際という名の売春をやっているのか。怖くて知りたくない。本作は未成年者の売春の話だ。
主人公のイザベル(マリーヌ・ヴァクト)は普通の家庭に生まれた高校生。両親は離婚し、実母、義父、弟と暮らしている。家族とともに訪れた夏のバカンス先で17歳の誕生日を迎え、行きずりのドイツ人青年と初体験を済ませてから大変身。パリに戻るや、高校の授業が終わると母親の洋服を無断借用し、レアという架空の女になりすます。「ルボンヌ大学文学部の学生。年齢は20歳」と偽り、出会い系サイトを使って見知らぬ男たちを相手に売春に励むのだ。1回の料金は300ユーロ。高いときは500ユーロになる。
ところが常連客の老人ジョルジュ(ヨハン・レイセン)と一戦交えている最中に相手が腹上死。イザベルはホテルから逃げ去るが、防犯カメラの映像によって警察に特定され、すべてを親兄弟に知られるのだった。
恵まれた家庭のイザベルは何のために体を売ったのかははっきりとしない。稼いだカネをそっくり隠しているところを見ると、体を売るスリルを楽しんでいると解釈したほうがいいだろう。イザベルの中には2つの自分が存在する。青年と浜辺で初体験したとき、彼女の分身が2人の情交を見下ろす。これが心理学者が言う「もうひとつの自我」であるなら、自分を客観視することによって心の中に眠っていた「売りたい願望」に目覚めたのかもしれない。それは自己を貶める第二の自分と言えるだろう。この二面性は腹上死に遭遇するまで鏡によって表現される。男の前で裸になるとき、300ユーロの報酬を受け取るとき、室内の鏡がもう一人のイザベルを映し出す。
つまり「もうひとつの顔」を持ち、自分を貶めることに喜びを見出すわけだ。野卑な男どもから「一度客を取ったら死ぬまで売女だ」と侮蔑されようと、料金をケチられようと、シャワーを使わせないと嫌がらせを受けようと、彼女は売りをやめようとしない。
そんなイザベルを幼い弟は不思議そうに見つめる。彼の視線は、女は貞操観念が強い存在だと信じている男たちの思い込みに通じるものがある。弟は姉がベッドの上で股間に枕を挟んで自慰をしている現場を目撃するが、体を売るまでは想像できなかっただろう。筆者は女のきょうだいがいないのでわからないが、自分の姉や妹が売春や風俗嬢をしていると見抜ける男はどれだけいるのだろうか。
前半はイザベルの初体験と男たちとの売春、老人の死、警察の事情聴取。後半では母親の勧めで精神科医のカウンセリングを受け、同級生の男子と恋愛する。この17歳の少女の心は何かを渇望している。その発露として体を売った。男たちに侮蔑され、冷遇されようとも売りの世界から逃れられない。
そういえば以前、30代のマスコミ関係の女性と打ち合わせしているとき、「わたし、ソープランドでバイトしてみたいんです」と打ち明けられたことがある。体を使って見知らぬ男たちに尽くす、自分が商品としてカネで買われる。そんな体験をしてみたいというのだ。彼女は一流大学を出た聡明な女性で、気遣いのできる真面目な性格だ。一般のOLだったら社内で「お嫁さん候補」の上位にランキングされただろう。その2年後に普通の会社員と結婚したが、風俗でバイトするという願望をかなえられたのかは知らない。本作のイザベルと彼女の動機は異次元のものだろうが、もしかしたら一部の女性の心理には「売り物になりたい」という願望が潜んでいるのかもしれない。
映画の終盤でイザベルはスマホにSIMカードを差して久しぶりに男たちのリクエストをチェックする。口元に笑みを浮かべているのは、彼女が売春から逃れられない運命だからだろう。そういえばフランス映画「ダニエラという女」(2005年)でもパリの娼婦ダニエラ(モニカ・ベルッチ)が実直なサラリーマンと同棲を始めながら、アパートをこっそり抜け出して売春宿に舞い戻る場面があった。イザベラとダニエラ。この2人のフランス女性(M・ベルッチはイタリア人だが)を見るにつけ、「一度客を取ったら死ぬまで売女だ」という言葉が侮蔑の意味を離れて、女性を語る上での真実のように響いてくる。

蛇足ながら

つい先日、20代前半の女性からこんな話を聞いた。彼女は日東駒専の一校を卒業。大学時代にまず渋谷でデリヘル嬢をやり、その後ソープでバイトした。実家から通学し、家庭は裕福とまではいわないが、カネに困っているわけではない。本人は「私は物欲がない」というだけあって、カネは貯まるばかりだ。何が買いたいということもないから、けっこう残る。貯金は2000万円近いという。
面白いなと思ったのは風俗に入ったきっかけだ。大学の同級生の女子たちとお茶をしたとき、何のバイトをしているかという話題になり、「デリヘル嬢をやってる」という子がいた。彼女はその女性の話を聞いて、風俗嬢になったら自分はそのことをどう受け止めるかを見てみたくなった。だからデリヘルに勤め始めた。ソープに入ったのは別の同級生が勤めていたからで、その女の子が在籍する店にためらいもなく入店した。「今の女の子は風俗でバイトしていることを平気で他人に話すし、お店に勤めることに抵抗感はありません」とのことだった。筆者のようなオッサンには理解できない。
かれこれ40年ほど前、テレビで女子大生がソープランド(当時はトルコ風呂といった)でバイトするケースが増えているという報道を見た。取材を受けたのは名門女子大に通う女の子で顔はボカしていた。番組は彼女が通う大学にも取材。広報担当者は「当校の学生が風俗嬢をしているのではなく、風俗嬢が当校に通っていると解釈したい」と説明していた。なるほど、ものは言いようだと思った。今では大学生がソープでバイトしたところで誰も驚かない。世の中は大きく変わった。

ネタバレ注意

ラストは重要な場面。イザベルはいつも使っていたホテルで死んだ老人ジョルジュの妻アリスと面会する。老妻を演じるシャーロット・ランプリングはイザベラを恨むでもなく「17歳、美しい年ね」と言い、「私に勇気があれば、男にお金を払わせ、セックスしたかった。でもできなかった。ときどき空想するだけよ」と若かりしころに封じ込めた売春願望をさらりと明かす。さすがは「愛の嵐」(1974年、伊)で小悪魔を演じた大女優。シャーロットの一言や重し、である。彼女の言葉は女の不思議さを解き明かすヒントを秘めていると同時に、筆者の頭の中をさらに混乱させる。女とは何ぞや……。
ベッドの上でアリスの隣に身を横たえ、しばしの微睡から覚醒するイザベル。彼女がまたしても鏡と向き合い、口元にかすかな笑みを浮かべる姿はもう一つの顔から逃れられない現実を物語っているように思えるのだ。

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