ジョーカー

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ビジネスマンを殺害した8発の銃弾が暗示する虚構の世界

ジョーカー(2019年 トッド・フィリップス監督)

10年ほど前、外資系銀行に勤めている人からこんな話を聞いた。
「現在の米国は貧富の差が広がるばかりだが、今から60年ほど前はこれほどひどくなかった。もちろん大富豪はいたが、国民の大部分は中産階級と言ってもいい状況だった。今のようにリッチ層とその他というふうに二極化したのはバブル経済のころからだろう」
マイケル・ムーア監督が「キャピタリズム ~マネーは踊る~」を撮ったのは2009年のこと。この作品でムーア監督は米国の現状を古代ローマ帝国になぞらえ、ごく一部の支配階級が奴隷を含むその他大勢の上に君臨していると表現した。リッチ層と非リッチ層の二極化のことである。
ところが最近はこの二極化がさらにエスカレートしたそうで、筆者の知り合いの政治経済学者は「今の米国は0・1%のスーパーリッチ層が富の99%を支配している」と常日頃から語っている。国民の1000人に1人がカネを含む全財産を所有し、さらに肥え太っているというのだ。彼は「ビル・ゲイツは新型コロナのおかげで一日に600億円の収入を得ている。一日にだよ」と苦笑いしていた。
今回紹介する「ジョーカー」は貧しい主人公の犯行によって溜まりに溜まっていた不満のマグマが吹き出し、大衆が大暴れする物語。そのため米国の貧困問題を象徴していると言われた。社会派の問題作というわけだ。日本で興行収入50億円を達成したヒット作だから、詳しいストーリー解説は必要ないだろう。
舞台は1981年のゴッサムシティ。財政難で市民の不満が内在しているこの街で、主人公のアーサー(ホアキン・フェニックス)は理由もなく笑い出してしまう精神疾患を抱えながら、母親のペニー(フランセス・コンロイ)と貧しい暮らしをしている。コメディアン志望のアーサーは大道芸人(ピエロ)のバイトで生計を立てているが、街の悪ガキどもにプラカードを奪われた上に暴行を受ける。
自宅では母と一緒にマレー・フランクリン(ロバート・デ・ニーロ)が司会を務めるトークショーを見るのが楽しみ。この番組を見ながら彼は自分が客席からマレーに呼び出されてステージに上がり、彼と抱き合うシーンを空想する。
一方、母はゴッサムシティの有力者で大富豪のウェインにせっせと手紙を書き送っている。ウェインがアーサーの父親と信じているのだ。
そんなある日、アーサーは同僚のランドル(グレン・フレシュラー)から護身用との理由で拳銃を渡されるが、ピエロとして出向いた小児病棟の慰問でこの銃を落としてしまったため解雇される。その帰り道、電車の中で女性に絡んでいる3人のビジネスマンに暴行され、拳銃を発砲。3人を射殺して逃走する。
彼は富裕層に不満を抱く市民のヒーローとなり、同じアパートに住む黒人のシングルマザーのソフィー(ザジー・ビーツ)と相思相愛の仲に発展。ウェインを訪ねて追い返されるが、マレーの番組にゲスト出演して欲しいとのオファーを受けるのだった……。
電車の中でアーサーを殴る蹴るした傲慢な連中はリッチなビジネスエリートだろう。彼らを射殺する展開は何だか胸がスカッとする。日本人が大好きな勧善懲悪。しかも社会の底辺にいて注目されなかったアーサーが英雄視され、街には彼を讃えるようにピエロのマスクがあふれ返るのだ。つまり悪ガキと雇用主への怒りという些細な動機がアーサーに引き金を引かせ、大規模な暴動を勃発させた。サラエボ事件が死者1千万人の第一次世界大戦を引き起こした史実を見るようだ。
思い込みの強い人物が殺人によって英雄に祭り上げられるのは「タクシードライバー」(76年)の要素。主人公がコメディアン志望という点では「キング・オブ・コメディ」(82年)に近い。「キングーー」の主人公も母親と暮らしている設定だったし、出版した本がヒットするなど立志伝的な結末になっている。この2作品はともにマーティン・スコッセッシが監督し、デ・ニーロが主演したこともあって、本作の公開時にあらためて注目された。
人はちょっとしたことで英雄になってしまう。逆に言えば、大衆もまた思い込みや誤解、願望で英雄を作り上げてしまうわけだ。本作の場合は富の支配層への不満と怒りがあった。アーサーの過剰防衛ともいえる犯罪を主軸に、民衆が抱えるフラストレーションの爆発を語ったドラマだ。
アーサーは父性愛と女性の愛情を求めるあまり妄想癖にとらわれており、前述したマレーと抱き合う場面やシングルマザーとの恋愛は希望的な思い込みに過ぎなかった。このことも重要な意味を持っている。

ネタバレ注意

という具合にストーリーを解説した。だが、筆者はこの「ジョーカー」を初めて見たとき物語の進行が謎だらけに思え、そこに一貫した真実はあるのかと疑い始めた。
きっかけはアーサーがビジネスマン3人を殺害する際に発射した弾丸の数だ。車内とホームで彼は8発の銃弾を発射した。米国には回転弾倉式の8連発銃はあるが、一般的ではない。アーサーが手にした銃の形状から考えて6連発と考えていい。彼は途中で弾込めをしていないので8発撃つのは不可能だ。日本ならともかく、銃社会の米国で映画スタッフがこのような初歩的な見逃しをおかすはずがない。ということは製作サイドが意図的に弾数を間違えたことになる。
なぜなのか。
筆者はその目的を、この「ジョーカー」という映画がファンタジーであることを暗示するためだと考えた。
そこで翌日、もう一度劇場に足を運んでこの映画を見返した。その結果、弾数のほかにも不自然な部分があると感じた。
たとえば……。
①アーサーが拳銃を所持したのはランドルから押し付けられたからだと説明する場面で、彼の言葉を聞いたランドルは青天の霹靂という反応で否定する。ランドルの言い分が正しければ、銃の譲渡の経緯も事実かどうかあやしい。
②街の名士たちが映画を見ている劇場にアーサーは忍び込み、係員の制服を着て客席に入る。外では民衆が怒り狂って暴れているのだ。劇場が裏口などの戸締りを怠っているはずがない。
③この劇場場面で、アーサーはトイレでウェインに話しかけ、鼻を殴られる。かなりの打撃だが、翌日以降の場面に鼻が腫れている描写はない。
④そもそも名士であるセレブ層がチャップリンの「モダン・タイムス」(36年)を見て大笑いしているのが不自然。この作品の解釈の仕方はさまざまだが、色眼鏡で見なくても資本主義社会への批判があふれていることは明白だし、そのためチャップリンは米国から追放された。そんな作品をスーツ姿のセレブが喜んで鑑賞しているのは幻想的ですらある。
⑤アーサーがウェイン宅を訪れる際に乗った列車内の場面で、彼以外は全員がダークスーツにネクタイ姿。しかも殺人ピエロの記事を読んでいる。これも幻想的な演出だ。
⑥アーサーがマレーの番組に出演した際、2人は言い合いになり、マレーは「君は今日、ホームで取り押さえられた刑事を嘲笑した」と非難するが、なぜマレーがホームでの騒動を知っていたのか。
⑦アーサーがコインランドリーでマレーの番組を見ていると、自分がライブハウスで漫談を語っている映像が突然放映される。これはまことにおかしい。権利関係にうるさい米国のエンターテインメント業界で本人に無断でステージの映像をテレビ放送するなんてことがあり得るだろうか。アーサーは無名の一般人に過ぎないのだ。本来なら、著作権侵害どころか人権侵害だ。
以上の不審な点から考えると、この映画は監督、脚本家をはじめとした製作スタッフが意図的に幻想・妄想としてストーリーを構築したとしか考えられない。本欄の「ゲッタウェイ」の稿でも説明したとおり、米国ハリウッドには犯罪者が逃げ延びる結末は倫理上許されないというルールがある。本作のアーサーは終盤でパトカーから引きずり出され、群衆の熱狂的な支持を受けてヒーローとなる。映像になっている部分だけでもビジネスエリート3人とランドル、マレー、さらに母親まで6人を殺害した。はっきりとは描かれていないが、シングルマザーのソフィーとその娘、ラストの黒人女性カウセラーも犠牲になったかもしれない。こんな人殺し野郎が英雄としてもてはやされたら、世の中は道徳的に収拾がつかなくなる。そこで幻想・妄想という味付けで逃げを打った。同時に観客に「分かるかなぁ、わかんねぇだろうなぁ~」という謎かけを試みたと思えるのだ。ついでに言うと、ホームでの警官取り押さえをマレーが知っていたということは、マレーはアーサーの分身かもしれない。そもそもマレーの殺害自体も本当の出来事か疑わしい。

もしアーサーがQアノンだったら?

その上で、こんな疑問も沸き起こる。アーサーを支持する大衆は本作が公開された2019年当時の米国のどのグループだったのかということだ。単純に考えると、黒人やヒスパニック、LGBTなどマイノリティが彼を支持したことになるのだろう。ということは民主党支持者という答えに至る。
だが、もしアーサーが「Qアノン」であればどうなるだろうか。彼はQアノンであると同時にトランプの分身ということにもなりかねない。
何度も言うが、本作は人間の怒りの暴動が些細な出来事から勃発することを物語っている。そういえば、今年1月にもトランプ支持者がワシントンの議会議事堂を襲撃した。あのときもトランプのでまかせ発言が原因だったような気が……。

コメント

  1. メリル より:

    ジョーカーの記事、拝見。
    最後はトランプ政権時の
    議事堂暴動につながったところ、
    時空を自在に飛翔する
    モリケンの羽🪶力、感じました。
    筆力もすごい!

  2. 「誠」 より:

     映画人が作品のなかに込めるメッセージ。それが、いまなお現実社会において確認できるさまを巧みに指摘する。モリケンさんの映画評論は、映画学習の最良の書の一つだと思います。
     韓国の映画は、日本映画大学のハントンヒョン准教授が、その著書のなかで明らかにしていますが、「権力に切り込む」のが特徴です。前首相安倍のごとく、モリカケ問題などの疑惑を、政治の力で葬ろうとする日本では、「腐敗した権力を代えることはできなくても、権力側をうまく取り込もうと」するような作品しか創れません。最近観た『KCIA南山の部長たち』なんかも、私的には、イビョンホンより、チョンドファン役がじつに上手く描かれていて、感心するばかりです。
     『KT』は日本映画なのですが、韓国映画と見間違うほどに「権力への切り込み」度は、じゅうぶんな脚本で、モリケンさんが、思い出と皮肉交じりに、しっかり評論してくれたのは嬉しい限りです。

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