「パラサイト 半地下の家族」 貧乏人が貧乏人を蹴落として生き残ろうとする現代の不条理

貧乏人が貧乏人を蹴落として生き残ろうとする現代の不条理

パラサイト 半地下の家族(2019年 ポン・ジュノ監督)

一昨日、韓国ソウルが集中豪雨に見舞われ、半地下の住居が浸水して3人の犠牲者が出たというニュース映像を見た。この映画「パラサイト 半地下の家族」と同じ光景に、現実のほうがずっと悲惨なのだと痛感させられた。かの国の貧困層は命がけで生きているということだろう。
本作は第72回カンヌ国際映画祭で韓国映画初のパルム・ドールを受賞。さらに第92回アカデミー賞で6部門にノミネートされ、作品賞、監督賞、脚本賞、国際長編映画賞の4部門を受賞した。歴史的作品だ。
筆者は2019年11月に、京橋のテアトル試写室で本作を見学した。カンヌを取ったというニュースを見て、どんな作品かと思い、早めに試写室に行ったら長蛇の列ができていた。補助席に座り、スクリーンを斜めから見る恰好になった。
これまでたびたび事業に失敗し、計画性も仕事もないが楽天的な父キム・ギテク(ソン・ガンホ)は妻と長男、長女とともに半地下の住宅で暮らしている。妻のチュンスク(チャン・ヘジン)は甲斐性なしの夫に半ば愛想を尽かしている。息子のギウ(チェ・ウシク)は大学受験に落ち続け、娘のギジョン(パク・ソダム)は美大を目指すがうまくいかず、予備校に通うカネもない。一家は日も当たらない不衛生な半地下で宅配ピザのケースを組み立てる内職をしてなんとか生きている。
そうした暮らしの中、ギウがIT企業を経営するパク社長の高校生の娘ダヘ(チョン・ジソ)の家庭教師の仕事にありつき、高台の豪邸に通うことに。ギウはパク社長の美人妻ヨンギョ(チョ・ヨジョン)に自分をソウル大生だと偽り、ついでにギジョンを米国の大学を出た美術教育の専門家とウソをついて売り込む。ギジョンはパク家の小学生の息子ダソンの美術家庭教師として高額のギャラを稼ぐことに。
悪知恵の働くギジョンはパク社長の社用車のベンツに自分のパンティーを残して運転手をクビにするよう誘導。代わりに父ギテクが運転手に雇われる。さらにギテクはヨンギョに、従来の家政婦が結核であると信じ込ませて解雇させ、その後釜にチュンスクを雇わせる。こうしてギテクの一家は4人全員がパク家の雇い人となる。つまりパラサイト(寄生)したのだ。
ところがパクの家族がキャンプに出掛けた夜に異変が起きる。ギテクたち4人がもっけの幸いとばかり勝手に家の酒を飲み料理を食べているとき、クビになった家政婦が嵐の中を訪ねてくる。彼女は衝撃の事実を伝えるのだった。
本作の魅力は小気味よいストーリー展開だ。ウソと罠によって家族がリッチな家に潜り込む過程をポンポンポンと手短に描写していく。家政婦を追い出す際にティッシュを細工して若奥様を卒倒させる場面は拍手を送りたくなるほどオシャレな演出だ。この30年ばかり、韓国映画はハリウッド作品を模倣・研究してきたが、その成果がこの場面に生かされていると思う。
冒頭で貧困層は命がけと書いたが、本作の4人家族も必死で生きている。家族全員が富裕層の家庭に寄生することで命を維持するストーリー。コミカルに描かれた彼らの生態はスマートなやり方のようで、実は醜い。ソウル大生だと嘘をついて長男が潜り込むまではいいとしても、長女は生パンティー仕掛けで運転手を追い出し、父は家政婦を病気にして追い出す。その結果、ちゃっかりパク家に入り込む。単なる頭脳プレーではない。貧乏人が貧困から脱するために同じく貧乏な人たちを犠牲にするのだ。
芥川龍之介の「蜘蛛の糸」のように、他人を蹴落としても幸せになろうというエゴイズム。ここに本作の不条理なテーマがある。単にリッチ層に寄生するのではなく、貧乏人同士がせめぎ合い、足を引っ張り合う現実を突きつけてくる。そのため見ているこちらはブラックコメディの妙味を味わいつつも、どこかしっくりこない居心地の悪さを感じてしまうのだ。
ついでに言うと、ギウがダヘと恋仲になるのは富裕層の大学生から女性を奪う行為。つまり金だけでなく、女性に関してもパラサイトし、ギテクは息子がダヘと結婚したらこの家が手に入るとうそぶくのだ。何から何までごっそり盗んでしまおうというわけである。ただし、あくまでも合法的に。
パク社長が運転席のギテクの体臭を「我慢できない悪臭」と評すように、この映画は匂いをうまく使っている。子供のダソンは4人に共通する匂いを感じて、変だなと思っている。ギテクの体から漂うのは半地下の下水の匂いであり、それは豪邸に住むパク社長には耐えがたいものだ。つまり体の匂いひとつとっても、富裕層と貧困層に歴然とした生活の差が存在する。
おそらく韓国社会はアッパーとロウアーの二極化が進んでいるのだろう。そのことは2014年に起きた「大韓空港ナッツリターン事件」を見ればわかる。カードゲームの大富豪・大貧民のように富める者はますます豊かになり、貧しい者はさらに辛酸をなめる。本作をこうした新自由主義への批判ととらえてもいい。
新自由主義は強い者が弱い者を蹴落とすシステムだ。日本ではあの竹中平蔵センセイなどが旗振り役で推進してきた。その結果、労働者の約4割が非正規社員といういびつな社会構造を生んでしまい、一向に改善する兆しはない。筆者は先日、派遣会社のスタッフと話す機会に恵まれたが、その人ですら、「4割が非正規なんて国は世界中で日本だけ。どう考えてもおかしいし、国を衰退に向かわせるだけ」と苦笑していた。非正規の口入れ屋で稼いでいる会社の社員ですら社会矛盾ととらえているのだ。これなどは現実のブラックコメディではないか。
安倍政権の時代、トリクルダウンという言葉が脚光を浴びた。昨年の自民党総裁選でもこの言葉が飛び交ったものだ。トリクルダウンとは「富める者が富めれば、貧しい者にも自然に富がこぼれ落ち、経済全体が好転する」という経済理論。本作を見れば、貧乏人がおこぼれにあずかるには経済理論なんかどでもいい、パラサイトしか方法はないよと皮肉のひとつも言いたくなる。ちなみに自民党支持者は気づいていないが、日本のトリクルダウンは失敗した。三本の矢もことごとく失敗。その証拠に筆者は物価高と低収入にあえいでいる。
話を映画に戻そう。本作を見て気づくのはリッチ層とプア層の性格の対比だ。パク社長は大富豪でありながら、その性格は温和でお人好しだ。使用人に威張り散らしたりはしない。ギテクの体臭が我慢できないと感じているものの本人に文句を言うわけではない。妻のギテクに至ってはおバカと言いたくなるほど世間知らずで信じやすい性格。娘のダヘは惚れっぽい少女だ。こうした無邪気な家族を、ずる賢い家族が手玉に取る構図も本作の注目ポイントと言えよう。

ネタバレ注意 流血でよかったのか?

本作には秘密の展開が仕込まれている。カンヌやアカデミー賞の授賞式のとき、出演者のパク・ミョンフンが顔を出せなかったと話題になった。彼が演じるグンセは家政婦の夫で、商売に失敗し、借金取りから逃れるために豪邸の地下の核シェルターに隠れて住んでいる。妻がこっそり食べ物を与えていたのだ。つまり2組の貧困家族がパク家に寄生していることになる。その結果、貧困家族同士が格闘するというシニカルな修羅場が展開する。金持ちは半地下に住み、貧乏人は半地下と核シェルターに潜伏する。後者はまるでモグラのように日の目を見ない。貧乏人はどこまで行っても貧乏人という宿命を思わせるのだ。
意見が分かれるのが結末だ。のどかなバーベキュー会場で流血の惨事。このゲバルトな終わり方はいささか突飛で乱暴な印象を受ける。もっとノーブルなエンディングもあったのではないか。筆者は複数の映画好きから「ラストにもうひとひねり工夫が欲しかった。惜しい」という声を聞いた。
蛇足ながら、物語の序盤で半地下の窓の近くで酔っ払いが立ち小便する場面が2度出てくる。ただでさえ不衛生な半地下は立ち小便に弱い。その半地下の住居は映画の終盤で大雨によって浸水し、トイレから真っ黒の汚物が噴き上がって水没状態に陥る。水難に始まり、水難に終わるという解釈は考えすぎだろうか。

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