「ベスト・オブ・エネミーズ -価値ある闘い-」 バッハに国民を売った菅首相に見せたい50年前の黒人差別の真実

バッハに国民を売った菅首相に見せたい50年前の黒人差別の真実

ベスト・オブ・エネミーズ -価値ある闘い-(2019年 ロビン・ビセル監督)

 ついにと言うべきか、とうとうと言うべきか。東京五輪が始まった。もう後戻りはできない。国民の多くが開催に反対あるいは延期すべきだと主張しているのに、菅政権は五輪のごり押しにノーと言えず、ボッタクリ男爵のバッハに屈した。これは国民を裏切る行為といえる。
 そこで本作を思い出した。米国で実際に起きた黒人差別問題をテーマにしている。この映画の登場人物のように、菅首相が勇気ある撤退をしてくれたら事態は好転しただろうという皮肉を込めて紹介してみたい。ただ、その意図はネタバレ注意に書いてあるので、未見の人は本文だけ読んでいただきたい。
 舞台は1971年の米国ノースカロライナ州のダーラム。厳格な人種隔離政策が取られている町で、公立の学校は白人専用と黒人用に差別化されている。ここにアン・アトウォーター(タラジ・P・ヘンソン)という公民権活動家の黒人女性がいる。今日も貧しい黒人のためにアパートの待遇改善を求めて地元の議員に陳情を行った。
 一方、ガソリンスタンドを営むC・P・エリス(サム・ロックウェル)は筋金入りの人種差別主義者で白人至上主義団体「KKK(クー・クラックス・クラン)」の支部長だ。今夜も仲間とともに3丁のショットガンで、若い白人女性の自宅に嵐のような銃弾を放って彼女を恐怖のどん底に叩き込んだ。理由は女性が黒人男性と交際しているからだ。
 ある日、黒人のイーストエンド小学校で火事が起きる。火事は半焼で収まったが、学校で授業ができないため、アンたちは生徒を白人が通うダーラム小学校に編入するよう要求。拒否される。やがてこの騒動を全米黒人地位向上協会(NAACP)のメンバーが聞きつけてアンに事情聴取し、彼らはダーラム市を法的に訴える。
 困り果てた判事は知り合いの議員に相談。その結果、黒人大学の学部長を務めるビル・リディック(バボー・シーセイ)を招いてシャレットという評議会を開催する。シャレットは意見が対立する人々の議論の場。ビルは黒人と白人の統合策に賛成する者と反対する者を選んで壇上に並ばせ、会場の人々とともに議論を尽くすよう運営する。期間は2週間(正味10日)だ。こうして黒人の地位向上を目指すアンと、差別と暴力を貫こうとするC・PらKKKの戦いが始まる。そのさなか、CPはKKKの最優秀支部長賞を受賞するのだった……
 バリバリのおばちゃん活動家VSコテコテのKKKリーダーという関係を中心に、シャレットを主催するビルが人物を動かす形で物語が進行する。偏狭な町で理性の話し合いが始まるのだ。
 白人と黒人のイデオロギー対立が興味深い。白人は自分たちの子供が黒人と机を並べることに嫌悪感を覚えている。一方、黒人は毎朝わが子を見送るときに、白人からツバを吐きかけられるのではないかと心配している。肌の違いによって親たちの苦悩が対立。その根底にあるのが差別意識なのは言うまでもない。
 黒人派は毎日シャレットの話し合いが終わったらゴスペルを歌うことを許可してほしいと申し出る。これにC・Pらは難色を示し、「だったら会場にKKKの衣装を展示させろ」と交換条件を出す。アンは条件を受け入れ、会場でKKKの展示物をこっそり排除しようとする黒人青年たちを見かけて彼らをたしなめる。アンにとってKKKは憎むべき存在だが、ひとたび認めたからには展示を妨害することは許されないとの理性を保っている。こうしてシャレットは進んでいく。
 だが差別主義者たちが紳士的であるはずがない。彼らは自分たちに逆らいそうな人々を恫喝していくのだ。
 今からちょうど50年前に行われた実話が事実の重みを伴って「あなたはどう思うのか?」と問題提起を観客に突きつけてくる。133分の映画は長さを感じさせない。同じ公民権運動を描いた「ミシシッピー・バーニング」(88年)とは一味違った社会性をはらんでいる。サブタイトルのとおり、ここに繰り広げられるのは「価値ある闘い」だ。

ネタバレ注意

 シャレットの10日目。評決によって黒人の小学校への予算増加案は可決した。問題は最重要課題の小学校における人種統合だ。評議員12人のうち8人が賛成を表明すれば黒人の児童がダーレム小学校で授業を受けることが認められる。だが若い白人女性はKKKメンバーに自宅に侵入されて脅迫されたため「将来的には検討されるべき問題だが、今ではない」との理由で反対を表明。アンたち黒人は追い詰められる。
 最後はC・Pの意思表明だ。ここで彼は周囲の予想を覆し、賛成に回る。かくして人種統合政策は可決。あっと驚く逆転劇はまるでフィクションのようだが、50年前に起きた紛れもない事実である。現役の白人至上主義団体のリーダー、それも最優秀支部長賞を受けた男が土壇場で仲間を裏切り、理性の賛成票を投じたわけだ。KKKのメンバーカードを破り捨てたC・Pが妻と娘を両手で抱いて歩み去る光景が実にいい。
 そこで現下の五輪である。菅首相という国のリーダーは五輪を開けば幸せになるという五輪至上主義を妄信し、白人のバッハに加担して東京大会を開催した。もし菅首相が本作のC・Pのように改心し、踏みとどまれば国民は五輪に不安を覚える必要はなかった。今回の東京五輪によって日本全国にどれだけ新型コロナが拡大するかは分からない。だが国民の生命を守ることが総理の使命である以上、万が一を考慮して危険を回避するべきだった。
 本作のCPは自分を英雄視するKKKのメンバーと決別し、人種差別反対の道を進み始めた。彼を取り巻くKKKメンバーを現在の日本に当てはめるなら、小池百合子や丸川珠代、橋本聖子、森喜朗、竹中平蔵、猪瀬直樹らだろうか。菅首相がこうした五輪で食っている連中とたもとを分かち、バッハの野望を粉砕していれば、日本の歴史は変わっただろう。このことはコロナが蔓延するか否かの問題に留まらず、わが日本が欧米にノーを突きつけられるかどうかの分水嶺でもあった。だが五輪は始まった。
 考えてみれば、日本の保守的な指導者は途中で撤退できない欠陥を背負っている。かつてのアジア太平洋戦争。菅首相らが五輪さえやれば国が栄えるのだと妄信したように、かつての日本は「満蒙は日本の生命線だ」と叫んで他国を侵略し、米国に戦争を仕掛けた。その結果2発の原発を受け、ポツダム宣言を受諾して無条件降伏した。自発的に休戦したわけではない。こてんぱんに負けたのだ。福島第一原発であれだけ原発の危険性を目の当たりにしながら、それでも原発と手を切ることができない。ここにも、やめられない止まらないという日本の指導者の愚かな本性が現れている。
 本作はエンドロールが重要だ。実際のアンとC・Pの映像が流れる。2人は生涯友人関係を保ち、一緒にシャレットの経験を語るための講演活動を行った。C・Pの葬儀ではアンが弔辞を述べたという。アンの友人になったためC・Pは多くを失ったそうだが、その代わりもっと大切なものを得ただろう。
 本作はC・Pのチェンジによって物事が好転したくだりのあとにもう一段の結末が用意されている。それは「見てのお楽しみ」というところか。
 アンがC・Pの息子のために病院に掛け合って病室を変更させ、それを知ったC・Pがアンに抗議する場面は詳しい会話をばっさり切り捨てている。そのため「この場面でアンの考えや動機を明確にするべきだった」という、いかにも日本人らしい不満の声も聞かれるが、筆者はこのままがちょうどいいと思う。2人の間に何があったかをくどくど説明する必要はない。ただ、C・Pの中で神が目覚めた。それだけ分かれば、観客は鑑賞後に満足して席を立つことができるのだ。

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